子どもたちの方が知っている

今日の連携では、一日出張でいらっしゃらない担任の先生の代わりにサポートに入った。朝の会から4限の授業まで。

 

私は常勤講師として副担任をしていたときもそうだったのだが、基本的に担任の先生のやり方をそっくり踏襲しようとする。

特に朝の会や帰りの会、ホームルーム等は担任の色が出やすいからだ。

 

そのためには子どもたちに「いつもどうしてる?」と聞く。ひたすら聞く。

 

今日も健康観察のやり方からテストが早く終わったときの対応まで、「ん?」と思ったことは子どもたちに聞きながら進めた。

 

結局、そのクラスのことは子どもたちが一番よく知っているのだ。

 

朝の会について私が職員室に確認に行って帰ってきたら、もう子どもたちだけで朝の会始めていたし。

 

子どもたちをもっと信じて任せてみたいなと改めて感じた一日だった。

「複数時間の『学び合い』は他のクラスでやったことあるからきっと大丈夫」という慢心

昨日のブログで、複数時間の『学び合い』をやってはいるもののあまりうまくいっていない旨をブログに書きました。Facebookにその記事のリンクを貼ったら、何名かの方からコメントをいただきました。

 

その中でも、

「自分は不安に思っている」「信じきれない自分が居る」ということを、伝えるというのは難しいかなあ。(めちゃくちゃ勇気が必要ですね)。

単元『学び合い』を行うことで生徒に生じるメリットを、始まる時により多く語っておくのはいかがですか?終わりの言葉が多くなると、後出しジャンケンっぽくなりそうだなと思いました。

という2つのコメントを見て、ハッと思い当たることがありました。

 

実は以前に一度、あるクラスで複数時間の『学び合い』を試してみたことがありました。その際に思っていた以上にうまくいった気がしたので、今回も大丈夫だろうという慢心があったのだろうと思います。

 

そのクラス以外は2時間任せるのは初めて。

にもかかわらず、なぜ複数時間の『学び合い』にするのかということや、複数時間にすることのメリット・デメリットについて、始める前にしっかりと生徒に語っていなかったのです。

 

自分にとってはやったことがあっても、生徒にとっては初めてだということを常に頭に入れておかなければ。

 

今日の授業では仕切り直しをするため、授業の最初に生徒に謝罪し、きちんと時間を取って語りました。授業前に語る内容をノートにメモしてから授業に臨みました。

 

語ったのは、

前回はなぜ2時間みんなに任せるのかとか、メリットとデメリットについてきちんと話さないまま始めてしまった。ごめんなさい。

今までみたいに1時間で終わるのではなく、2時間任せるのにはデメリットもある。前回は多くの人が自分の課題に取り組むのに精一杯で、わからないところがあってもそのままだった人も多いと思う。

でも、それ以上にメリットもあって、任せる時間が多くなった分、前回も言ったけどそれぞれのペースで学び合える。早く終わった人は他の人に教えることで自分の復習にもなるし、わからないことをどんどん聞くこともできるし、一人で頑張ってみて、どうしてもわからないところは人に聞く人もいると思う。いろんな学び方が共存できるのがいいところだと思う。

 

複数時間の『学び合い』に関する本で手元にあったのが、高橋尚幸先生の『流動型『学び合い』の授業づくり』だったので、参考にさせていただきました。

 

今朝読み返して考えたのでかなり付け焼き刃だろうし、言葉を借りているだけかもしれないと思ったけれど、なるべく自分の言葉で話すようにしました。

 

また、

本来なら最初から前に模範回答を置いておいて「必要なら使ってね」って言うんだけど、前回はそうしなかった。なぜかと言うと、早い段階で答えを丸写ししてそれで終わりにしちゃう人が出るんじゃないかという心配があったから。2時間任せるって言ったのに、結局のところみんなを信用しきれていなかった。ごめんなさい。

とも伝えました。

 

その後の授業は内心ドキドキでしたが、きちんと最初に語ったので自分の中に余裕ができたのか、おそらくいつもなら見逃していたであろう生徒たちの言動を見取ることができた気がします。

 

・語句の抜き出し問題の答えを教えてもらった後も、それで終わりにするのではなく、教科書を端から端まで探し、見つけたときに「あった!」とうれしそうに喜ぶ子

・「抜き出しだけど、最後「。」いる?」(←私が常日頃気をつけるよう言っている)と友達に確認する子

・自分で解答を作ってみて、模範解答と見比べて、それでも納得できないところを3人で頭を突き合わせながら教科書とにらめっこして考える子…などなど。

 

今日一番驚いたのは、これまでの授業では一度も自分の席から動こうとせず、わからなければ空欄のままにしていた生徒が自分から動いたことです。

手が止まっているようだったので声をかけようかと彼に近づいたら、不意に立ち上がったのです。内心「お⁉︎」と思いながらそっと見守っていたら、前の黒板の方に行き、模範解答を眺めていました。うっかり声をかけなくて本当によかったと胸をなで下ろしました。

 

今日は生徒たちのいいところをたくさん見ることができたので、それを終わりの語りでいつも以上に伝えることができました。もちろんいろいろと反省点はありますが、それでも「2時間任せてみてよかった」と心から生徒たちに言うことができてうれしかったです。

解答を写すこと自体は悪いことではないのだが…

新しい単元(魚住直子さんの『卒業』)に入り、全てのクラスで複数時間の『学び合い』をしている。

 

①『卒業』に出てくる漢字のプリント

②あらすじの穴埋め

③第一段落~第二段落の内容理解の問題を見開き2ページ分

↑「この3つを2時間でやってね」と伝え、後は基本生徒に任せている。

 

複数時間の『学び合い』だと模範解答の示し方に悩む。

 

1時間の『学び合い』では最初から模範解答を教卓に出して「必要なら使ってね」と伝えるのだが、複数時間だと最初から示すのはちょっとためらってしまう。

「早い段階で”答えを写して終わり”にしてしまう生徒が出ないかな」という懸念がついてまわるからだ。

 

1時間ごとだろうと複数時間だろうと変わりはないので、最初からすべて任せてしまえばよいとも思うのだが。生徒たちを信じ切れていないのかなとも思う。

 

私の心の中が透けて見えているのか、2時間中2時間目のあるクラスでは黒板の前に来て答えを写し、その後20~30分おしゃべりしている生徒が目に入ってきた。

 

それでも、写しっぱなしにせず、ぎりぎりまで考えて解答を作ったり、どうしてもわからないところを私に聞きにきたりするなど、いいなぁと思う姿も見られた。

 

終わりの語りでは、

○時間を見て動ける人が増えてきたこと→次は私が「時間だよ」と言わなくても、時計を確認して全員が座れるようになるといいね

○自分のペースで課題に取り組んでいる姿が見られたこと

△一から何かを作れるのは一握りの天才だけだと思うから、この世の多くの仕事は写したり真似したりすることが必要になってくる。でも、社会に出たら丸写しだけではだめ。

全員が時間内に課題を終わらせるというレベルには十分達していると思うので、みんなならきっと次の段階に行けると思う。

 

「私は一人も見捨てたくない→全員が理解できるようになってほしい→分かり方は人それぞれ→どこでつまづいているかを探るには対話を積み重ねることが必要→私一人だけではそれは不可能→だからみんなの力を借りたい」という内容も交えて語った。

 

彼らと授業をするのはあと1か月と少しくらい。残りの時間でそう劇的に変わるかといったら必ずしもそうではないと思うが、彼らの変化・成長を見取り、評価し、少しずつでも前に進んでいきたいと思う。

映画「行き止まりの世界に生まれて」を観て

最近見る映画のジャンルが自分の中で変わってきているように感じる。

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http://www.bitters.co.jp/ikidomari/

「行き止まりの世界に生まれて」も、きっと以前の私なら見向きもしなかったと思う。映画は娯楽だと思っていたこともあり、ドキュメンタリー映画は今まで見てこなかったのだ。今は、映画を見ることが単なる娯楽以上のものになっている気がする。

 

「行き止まりの世界に生まれて」は、アメリカで最も惨めな町とされるイリノイ州ロックフォードに暮らすキアー、ザック、ビンの3人の若者を描いたドキュメンタリー映画である。

3人は幼い頃から貧しく暴力的な家庭から逃れるようにスケートボードにのめり込んでいた。映画監督になったビンのカメラには、彼らの12年間の軌跡が収められている。

 

スケートボードをしている彼らはとても明るく楽しそうだが、家族に向き合う彼らの姿は痛々しくもあり、彼らの葛藤や悲惨な過去も露わになっているなと感じた。

 

特にビンが自身の母親と話すシーンは、いつもは撮る専門のビンが自ら被写体となって母親と向き合おうとしており、心に迫るものがあった。

 

ビンはアジア系、ザックは白人、キアーは黒人なので、ぱっと見ただけではあまり共通点を感じにくい。それでも彼らはスケートボードでつながっており、スケート仲間は彼らにとってかけがえのない居場所だったのだろうということがひしひしと伝わってきた。

 

SNS等で「学校だけが全てではない」というような意見を目にすることが増えた。また、家庭に居場所がなかったり、私には想像のつかないような過酷な家庭環境で育っている子どもも中には存在すると思う。

 

教師は家庭には踏み込めない。その業を背負ってしまったら、命がいくつあっても保たないと思う。教師がなんとかできる可能性があるのは、基本子どもたちが学校にいる間だけ。

 

そういった子どもたちにとって学校がどのような場になれるのか、学校以外でもいいのでどのように居場所を作っていくことができるのか、考えていかなければならないと感じた。

選挙や政治の話を生徒にするのは難しい…でも伝えるべきことは伝える

『政治の基本は民主主義』という評論を授業で扱ったので、選挙に関してこんな問いを生徒に投げかけてみた。

 

「選挙権年齢が18歳以上になりましたが、あなたは今後選挙に行こうと思いますか?その理由(3行以上)も含め答えなさい」

 

高3の生徒たちなので、すでに選挙権を持っている者もいる。今の高校生は選挙に対してどう思っているのかちょっと興味があった。

 

「あなたが選挙に行こうと思うか、思わないかは正直どちらでもよい。それよりも、今回は自分の意見と整合性のある理由を述べられることの方が大事。」と事前に伝えてあったので、行こうと思う派も思わない派もさまざまな意見が出てきた。

 

・一部の人の意見だけで決められてしまうのは嫌だ

・選挙に行かなければ政治に対して不満やぐちを言う資格がない

・政治には興味がないから行かない

・自分が投票しても変わらないと思う

・自分が目指す社会を実現してくれそうな人を選ぶ

・自分の意見を政治に反映させたい

・選挙や政治について学んだら投票に行くと思う

・せっかく権利があるんだから使いたい

・公約がよくわからない

・ネット投票なら若い人も参加しやすいと思う…などなど

 

今日の授業の頭に返却して、その内容に関してフィードバックをした。

 

「いろいろな考えがあって、みんなしっかり考えてくれたんだなぁというのが伝わってきました」という全体へのコメントから始まり、

・私自身は選挙に行くし、みんなにも行ってもらいたいなとは思うけど、実際どうするかはみんな次第

・今どう思っていたとしても、行動するかどうかはまた別の話

・私がなぜ選挙に行くかと言うと、少数の人たちだけの意見で決められたくないから。最近は特に若い人たち投票率がどんどん下がっているから、選挙に行くような上の年代のための公約が多い。若い人が住みやすくするには、私もそうだし、みんなみたいなこれからの社会を作る人たちが選挙に行かなければならないと思う。

・例えば、みんなのライフプランは知らないけど、出産にいくらかかるか知ってる?基本保険がきかないから50万くらいかかるんだよ。出産でそんなにお金がかかったら、子供を産もうという人は減っていきそうだよね。「子育てしやすい環境を作ります」という公約を掲げた人に投票すれば、そういう現状が変わるかもしれない。

・「政治について学んでから選挙に行きたい」という意見があったけれど、進学したり働いたりしている中で政治について学ぶ余裕があるかというのはちょっと考えてみてほしい。たぶんそんな時間意識しないと作れない気がする。

・だから、選挙の公約を新聞とかで確認するのはもちろんなんだけど、最初は候補者のポスターにあるキーワードを見て「この人に投票したいな」と投票する人を決めるのでもいいと思うんだよね、個人的には。

 

今までは選挙や政治の話を授業でするのは、なんとなくためらわれた。というのも、自分の話が法に反するかどうかの判断が難しく、それなら話さない方がいいやとなっていたからだ。

 

教育基本法には以下のような条文がある。

第8条 (政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。

② 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

 

政治的教養と政治教育・政治的活動の線引きが自分の中で曖昧だったのだ。曖昧だからこそタブーになっていたのかもしれない。

 

ただ、選挙権年齢が引き下げられ、主権者教育の重要性が叫ばれる中、選挙や政治の話をタブー視してはいられない。

 

伝えるべきことはきちんと伝えなければ。

そのために自分自身の考えをアップデートしていかなければならないと感じた。

有意差が出ないのだ

個人研究において天啓が下りてきたと思ったのもつかの間。

bookmarker330.hatenablog.com

 

量的分析で有意差が出ない。

 

「企業で働く方のほうが高校の教員よりも働く際に必要な力としてコミュニケーション能力を重視している」

↑このことを言うために、属性とコミュニケーション能力の言及の有無で2×2のクロス表を作って直接確立検定を使って分析したのだが、明確な有意差は出なかった。

 

感覚では、企業で働く人のほうがインタビューにおいて「コミュニケーション能力」と答える人が多かった気がしたのだが、いざ分析にかけてみると有意差はない。けっこうヘコむ。

 

有意差を出すためだけに研究しているわけではないのだが、有意差が出ないと「君の思い過ごしでしょ?」と言われているような感じで「今までの私の努力はいったい…」と思ってしまう。

 

自分の主張を、有意差という学術論文において明確な根拠で支えたい。

 

もう一つの可能性にかけて現在さらに分析を進めているが、どうなることやら。

 

「とりあえず興味あることを調査してみたけどあんまり結果が出ませんでした。以上」という5年前の私の卒業論文のような研究から脱したい。研究として成果を出したいと思う。

 

研究は楽しい。でも同時に苦しくもあるんだなぁ、これが。

連携校の音楽会に参加して

日付が変わってしまった。久しぶりの寝落ち。

一昨日2時間高速で運転したときの筋肉痛(肩)が2日間も続くとは、どれだけしゃちこばってガチガチになって運転してたんだ、私。

 

今日(正確には昨日)、連携校の音楽会のお手伝いに行った。音楽主任の先生が担任されているクラスに入り、直前のパート練習等のサポートをした。

 

どのクラスも練習の段階からサポートに入っていたので、前日のリハーサルを見て、大きく成長しているなぁと感じた。

 

最初のパート練のうちは、わからないところや弾けない部分を曖昧なままにしている子や先生に言われてもなかなか練習に取り組めない子も、全体での合奏では一緒になって練習していた。まわりの子どもたちの力って本当にすごいと思う。

 

当日は5年生の本番の合唱・演奏を聞いた。5年生は特にアルトがしっかりしており、ハーモニーがとてもきれいだった。合奏は個人個人ミスもあったようだが、まわりの子どもたちがカバーしあって素敵な音色を奏でていた。

 

帰る際、いつもは「上越教育大学です。本日はありがとうございました」と挨拶して終わるところが、今日はそれに続けて「子どもたちの素敵な演奏を聴いていて、こちらもうれしい気持ちになりました」という言葉がするっと口をついて出た。

 

コロナウイルスで行事が中止・縮小されている今、行事のあり方を問い直す声も多い。持続可能な行事のあり方を模索していくことが重要なのかもしれない。