西川先生の「本に書いてある」が腑に落ちた話

サボっていた個人研究に最近本腰を入れるようになった。

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以前このブログでも書いたのだが、インタビューデータのカテゴリー分けに悩んでいたのでゼミで質問してみたら「本に書いてあるよ」の後、丁寧にも「そのデータで何が言いたいかが明確になっていない段階でカテゴリーに分けてもおじゃんになる可能性が高いよ」と解説してもらった。

 

「本読んでるはずなんだけどなぁ」と思いつつ、また『実証的教育研究の技法』を図書館で借りて読み直してみたら、西川先生のおっしゃっていることが急にストンと腑に落ちた。

 

私がそのデータで言いたいことは「高校教員よりも企業で働く人の方が、”働く際に必要な力”に関して”コミュニケーション能力”を重要視している」ということ。

 

でもこの言いたいことと、実際にカテゴリー化して表にすることとが結びついていなかった。コミュニケーション能力以外の回答をどうカテゴリー化するかに集中していたのだ。

 

「コミュニケーション能力についての言及の有無」と「企業関係者か高校教員か」という2×2のクロス表で自分の言いたいことは伝わるんじゃないか、と気づいたときには、天啓が降ってきたような感覚だった。

 

最初に『実証的教育研究の技法』を読んだのは、たしか個人研究を始めると決めた昨年の今頃だった気がする。そのときはこの本が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。しかし、手探りで研究を進めていき、折に触れて(というより何か困った時に)読み返すと、理解できる部分がどんどん増えていった。

 

カテゴリー分けについても、結局は本に全部書いてあったのだが、たぶん目に入っていなかったんだろう。「人間は自分が興味のあるものしか目に入ってこないんだな」というのを実感した。

 

研究だけではなく、『学び合い』に関しても普段から本を読んだり人と話したりして復習しておくのはもちろん大切なことだと思う。ただ、「困った!」という状況に立ち会ったとき、そこまで深刻ではない段階で、その「困った!」に関係する本を読むほうが、実際の場面をイメージしやすいし、自分の身にも入ってきやすいのではないかと思う。

 

腑に落ちるか落ちないかって、やっぱり自分の興味関心次第なんだなぁ。

音楽と国語は親和性が高いかも

来週末の音楽発表会に向けて、連携校ではステージ練習が始まっている。

今日は4年生の練習のサポートに入った。

 

「口を指2本分縦に開けてね」という具体的な指示の後、「口の中にコンサートホール作るよ」というフレーズを聞いて、音楽でも比喩でイメージを膨らませることが大切なんだなと思った。

 

音楽は実際に合唱で声を出したり楽器を演奏したりするので、言葉では伝えきれない部分がある。体で覚えることを言葉で伝えなければならないとしたら、比喩は有効な手法なのかもしれない。

 

しかも音楽のいいところは、比喩のイメージを体感できるところだ。今日の練習中も、ピアノのまわりに集まって「口にコンサートホール作るよ~」の後、実際に「アー♪」と声を出し、その響きを聞いてみるということをやっていた。

 

声を止めた後、体育館に声が響いているのを耳にして、子どもたちは「わぁ!」と歓声を上げていた。

 

比喩のイメージをもとに実際に声を出してみて体感する。

 

国語で比喩を扱う際は、なかなか体感するところまでいかない。「滝のような雨に打たれた」なんて実際に経験するのはなかなか難しい。

 

そういえば、ゼミの同期の現職さんが連携校での現代文の詩の授業で、お気に入りの歌の歌詞の鑑賞文を作るという課題をしていたなぁ。

 

音楽と国語のコラボってちょっとおもしろそう。

一斉授業と『学び合い』ではしんどさの種類が違う気がする

現在進行形で一斉授業も『学び合い』も実践している身としては、両者のしんどさには違いがあるような気がしてならない。

 

『学び合い』では後出しができない。だから課題づくりや指示の出し方には特に気を遣う。上位2割が誤りなく理解することができるか、課題の量や難易度は適切か、いろいろと考えだしたらきりがない。準備にはけっこう時間がかかると思う。

 

授業時は生徒に任せる時間が長いので、その間は集団の様子をじっくりと眺めることができる。生徒たちの良い行動を見取って語るために頭はフル回転だが、それでも授業をしていて楽しいと感じることが多い(もちろん心理的に余裕があればの話だが)。

一方、集団の闇が見えることもある。ただそれは教師だけが抱えることではなく、生徒たちとともに考え、乗り越えていくことだ。闇が見えたり、気になる子がいるのは苦しいが、それでも一人で抱え込まなくていいという点で少し気は楽だ。

 

一斉授業は、正直そこまで準備に時間はかからない。どんなに時間が取れなくても、板書案や話す内容をある程度考えればその場でどうとでもなってしまう。実際、今日の授業のために昨日授業準備に要したのはせいぜい15分くらいだったと思う。

 

授業時も主導権は教師である自分にあるので、後出しはいくらでもできてしまう。ペースも自分で調節できる。

 

ただ、生徒たちの様子を見ていると心が苦しくなる。早く書き終わった子はぼーっとしているし、書くのが遅い子は必死になって書いても追いつかない。時間の関係で7割がた書けたかなというところで説明を始めてしまうが、いつも心の中で「ごめんね…」と思っている。

午後の授業でクラスの半数が寝ていたりすると、本当にしんどい。彼ら彼女らに価値ある時間を提供できていないのがとてもつらい。

 

常勤講師として新しく採用された際の新人研修で「保護者は学費をこんなに払ってくれている。これは私たちの教育に対して期待してくれているということでもある。その学費分に見合うだけの授業ができているのか、振り返ってほしい」というようなことを言われた記憶がある。

 

「学費分(給料分)の仕事ができていない自分はダメだ」と自己嫌悪するのは精神衛生上よろしくないのでなるべくしないようにはしているが、この研修時に言われたことは今でも自分の中に戒めとして残っている。

 

この授業は生徒たちの将来の幸せを保障するものになり得ているだろうか。

このことを常に念頭に置いて、現状に折り合いをつけつつ、自分にできるベストを尽くしていかなければならないと改めて感じた。

2時間生徒に委ねてみたら生徒たちの素敵な姿がたくさん見られた話

本日はあるクラスで複数時間の『学び合い』の2時間目だった。

 

昨日の授業で「2時間みんなに任せるから、全員が課題を達成できるように動いてください」と伝えて任せた。課題は以下の通り↓

「愚直に働いている大多数の平凡な人たち」(89ページ11行目)とあるが、そのような人生についてどのように考えるか。自分の目指す働き方と比べて自分の意見を述べた上で、自分にとっての幸せとは何か、400字以上600字以内でまとめよ。なお、提出する前に必ずクラスメイトの誰かにチェックしてもらうこと

「幸せの分量」という評論を読んできたので、思い切って「自分にとっての幸せとは何か」、生徒たちに投げかけてみることにしたのだ。

 

昨日は生徒たちが思い思いに取り組んでいた。

1時間じっくりと構成を考える人。

友達と話しながら何を書こうか考える人。

おおまかな筋を決めてすぐに原稿用紙に書き始める人。

書いてみたはいいものの、途中でペンが止まってしまう人。

 

昨日の終わりには、「次回の授業で全員が課題を提出できるよう、自分でペースを考えてやってみてください。もし授業時間内に終わりそうにないなと思うなら、どうすればいいかも自分で考えてね」と伝えた。

 

そして今日。

「もう私が言うのは「決められた時間内に全員が400字以上600字以内で書いて、提出してね」ってことだけです。では始めてください」とだけ言って、教卓で少し作業をしつつ生徒たちの様子を眺めていた。

 

前の時間はわりとゆるっとした雰囲気だったが、今日は終わりの時間を意識し始めたせいか、全体的に必死になって取り組んでいた。

 

時折生徒たちのつぶやきが耳に入ってくる。

「後半これを書きたいから、ここに伏線張りたいんだよね」

「難しいよね」

「答えがないから難しい」

「答えがほしい!」

「できた?」

「読んでくれる?」

「この内容めっちゃいいね!」

「1か所ミスあったから直してね」

 

中には友達に読んでもらったら自分が大きなミスをしていたことに気づき、終了5分前に「え、なんで?」「これでいいの?」と何度も書き直しては見てもらっている生徒もいた。

 

最終的に、昨日休んでいた2人を除き、全員が書き終わって提出できていた。その2人もあきらめることなく、最後の最後まで必死になって書いていた。

 

いつも通り振り返りシートも書いてもらったのだが、そのコメントも素敵なものばかり。

今まで就職試験のことしか考えてなかったから、幸せについて考えると頭がパンクしそうだった

自分の思いを文にするのはおもしろい

今まで作文を時間内に書き終わったことがほぼなかったので、書き終わって本当によかったです!!!!

前回は書く内容を考えるのにまるまる1時間使ってしまったけど、今日は思いのほかすんなり書けた

授業時間内では終わらないと思った私は家で少し書いてきました

 

時間の使い方がどんどんうまくなっている。自分が書き終わっても、終わっていない子のところに行って見守ったり、アドバイスしたり、話を聞いたりするような渡り鳥的な生徒も何人かいて、全体としてよく動いていた。

 

そんな生徒たちを見ていて、思い切って2時間任せてみてよかったなとうれしくなった。

 

今日は時間の関係で作文に目を通すことができなかったので、明日以降読むのが楽しみでしかたない♪

生徒たちにちょっと任せてみて、失敗して、でも諦められない私

非常勤先の授業が安定してきた、と思う。

「ひたすら私が板書してしゃべり倒す解説→『学び合い』での演習」の繰り返し。

 

ネームプレートによる可視化ができないこともあり、全員達成や一人も見捨てないことにはそこまでこだわることができていないが、とりあえず9月当初に比べればだいぶ成長しているはず。

 

ただ、現状維持は衰退の方向への入り口になりかねないので、もう一つ上のレベルに上がってみたいという気持ちも心のどこかにある。

 

昨日ちょうど1つの単元が終わり、今日から新しい文章に入るので、2種類ほど変化球を投げてみた。

 

1つは、「ここ最近の様子を見ていて、たぶん私が解説しなくてもみんな問題解ける気がするんだよね」と言い、解説も何もなしに、

①初読の文章のあらすじの穴埋め

②第1段落に関する問題3問

↑この2つの課題を委ねてみた。

 

やはり解説なしで初読だと、必死になって教科書を読む生徒が一気に増える。先日の越後の会の分科会でも話が出たことだけれど、国語は文章を読まなければ始まらない。

 

2クラスでやってみたのだが、最初のクラスの方は思いのほか頑張ってやってくれていた。もう一方のクラスは、諦めてしまった生徒が多かったのか、クラスの半数が夢の国に行ってしまっていた。ただ、ちょっとおもしろいのは「はい、ここまで」とか「終わりにするよ」と声をかけると、むくりと起き上がる生徒が何人もいること。「授業の終わり感知センサー」でもついているのやら。

 

あまりに寝ている生徒が多いので「全員起きたら私が話をします。話が終わらないと授業の終了時間になっても終わりません。さて、どうしたらいいでしょう」と投げかけてみると、まわりを見てツンツンと起こしてくれる生徒が何人かいた。「私に言われなくてもそれができるともっといいねー」と伝える。

 

まぁ、そもそも寝ないのが一番なのかもしれないが、振り返りのコメントを見たら「マラソンの後の7限でめちゃくちゃ眠かった」の声が。んー、システムエラー感がなくはないけど、そこで止まってしまうと自分に言い訳しているような感じがする。

 

もう1つの変化球は、複数時間の『学び合い』。

 

「本文中で筆者が述べていることについてあなたはどう思うか。自分が目指す働き方と照らし合わせて自分の意見を述べ、自分にとっての幸せとは何か、400〜600字で書きなさい。提出する前にクラスメイトにチェックしてもらい、全員が時間内に提出すること」という課題を「2時間任せるからやってごらん」と投げてみた。

 

さてさて、どうなることやら。

『学び合い』道徳の課題づくりに奮闘中

連携校で11月から授業をさせてもらえることになった。道徳の『学び合い』。

 

とは言っても、時間割の都合上私は授業ができないので、同じチームのゼミ生が授業をしてくれて、私は課題づくりという黒子に徹するわけなのだけれど。

 

もう来週から始まるのでせっせと課題を作っているのだが、これがなかなか難しい。

 

道徳は読みもの教材をもとに授業をすることが多いのだが、「じゃあ国語と道徳は何が違うのさ」という状況に陥っている。私の専門が(一応)国語であることがそれに拍車をかけているような気もする。

 

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 ↑図書館でこれを借りて読んでみたり、同じコースで道徳が専門のゼミに所属している友達に相談に乗ってもらったり、使えるつてを使いに使ってひたすら考えている。

 

友達のアドバイスは私に足りていなかったものを補ってくれるものだった。

勤労の中学年目標が

「働くことの大切さを知り、進んでみんなのために働くこと」で、低学年との違いは、

・良さ→大切さ

・進んでという言葉の追加

なので、

働くって大切なことで、自分から進んで働くことがみんなのためになるってことを本時の学習で理解できればこの項目のねらい達成になるのかな

 

道徳的諸価値(勤労とかの内容項目)を6年間で6回繰り返す中でその価値観に気づき理解させ深めることが小学校の道徳目標なのかなー?

 

小学校は他の校種に比べ、学年ごとの学習の目標や内容のつながりを意識することが多いように感じる。そして、特に道徳は友達の指摘の通り、同じ内容項目を少しずつ発展させて6年間繰り返していくので、スパイラル状に進んでいくことになる。

 

道徳ははっきり言って苦手分野なのだが、約半年後には中学校の教員になる以上、避けては通れない。現場に出る前の今対峙しなければ今後もなあなあになってしまいそうなので、頭を抱えながら、無い知恵を絞って、人の助けを借りてやっている。

 

苦しいっちゃ苦しいけれど、この経験はきっと私にとって得なんだろうなぁ、とちょっと思っている。

越後『学び合い』の会のリフレクション

昨日の越後『学び合い』の会では、分科会の1つを担当させていただいた。

 

「中学・高校」の「国語」というかなりストライクゾーン狭めのテーマだったので、1人も参加者がいなかったらどうしよう、と内心おっかなびっくりだった。分科会を担当してくださる先生と打ち合わせしているときも、「(もし誰も来なかったら)2人でおしゃべりしましょうか」なんて、半分冗談、半分本気で話していたくらいだった。

 

当日は5名の方が参加してくださり、アットホームな感じで会を進めることができた。これはひとえに、発表者の方の悩みながらも自分の言葉で話そうとする語り口と、参加してくださった方のあたたかな雰囲気によるものだと思う。感謝しかない。

 

ファシリテーション役だった私はと言えば、発表者や参加者に気兼ねなく、気持ちよく話してもらう場を作るのって大変だなぁと感じた。

 

 

髙橋先生の講演では、心惹かれるキーワード・キーフレーズがたくさんあり、わくわくしながらお話を聞いていた。

・横に広げるのが苦手→受け入れてもらえるならだれがいいかなぁ

このリフレーミングは大切だと思う。私は「自分がやったところで…」と始める前から諦めてしまいがちなタイプなのだが、何もみんなに受け入れてもらう必要はない。そもそもそんなの不可能。現場に出てからは、まわりに影響力があって自分の話を聞いてもらえそうな人を見極めることと、話を聞くに値する人間であることの2つが重要になりそうだと感じた。

・教科書=子どもたちが共通して持っている学びの地図
 なるべく正解を頭の外へ

「行動・心情・性格・関係」という小説の読み方のポイントが、小学校の教科書に載っているとは…

みんなが教科書を持っているのだから、それを使い倒さない手はない。また、「正解を頭の外へ」というのは容易にできることではないけれど、でも課題を作ったり授業をしたりする際に頭に入れておきたいと思う。

 

 

分科会②の中本先生の発表は「一人も見捨てない」がまだ腑に落ちていない私にとって刺さる内容だった。中本先生は現在高校3年生の授業で、かなり自由度の高い『学び合い』を実践されている。

・1時間を自分に「得=メリット」があるように過ごす

・生徒に渡すだけだと孤立化してしまいがち
・どのような「つながり」をこちらが望むかを語る

自由度が高く、人によってやることが違うと、一歩間違えれば生徒たちのつながりが分断され、孤立してしまう。一人一人がやるべきことをしつつ、ゆるやかなつながりを作る。このバランスが難しいのだろうと思った。ただ、「こうなってほしい」という教師が持つビジョンを丁寧に語っていくことが大切なのかなと感じた。

 

 

西川先生の講演は、ゼミで決めた講演テーマが却下され、公募しても集まらなかったので、「事前に質問を募集して、先生にはランダムで答えてもらおう!」となった。さながら普段の学年ゼミのよう。

 

講演後のリフレクションで、ある先生が「復習になった」とおっしゃっているのを聞いて、”復習”という言葉が自分の中でしっくりきた。おそらく講演で出た質問項目を今の学年ゼミで尋ねたら、鼻で笑われるか、あきれたような顔で「本読め」の3文字が飛んでくることは容易に想像がつく。

 

リフレクションタイムのときに同じグループにいらっしゃった『学び合い』をやってみようとしている方は、「(私は初心者なので)初歩的な質問もあった方がうれしい」とおっしゃっていて、この形式でやってよかったなと思った。本を読むことはもちろん欠かせないことなのだが、本で字面を追う以上に西川先生の口から出た言葉には力がある。

 

 

『学び合い』の会に参加すると、普段の自分の考えや授業をちょっと立ち止まって振り返ることができる。生かせることは明日以降の授業でやってみよう。