先日、このブログで「『学び合い』の語りを事前に文章化するか否か」という記事を書いたとき、普段の語りがおざなりになっていたなぁと思った。
ただ、「明確に語りという形ではなくても、私は生徒たちに"語って"いたのかもしれない」と今日ふと思った。
その明確な語りの形を持たない"語り"は一斉授業で私がしゃべっているときに現れる。完全に不定期、その場の思いつきだ。たいていそのときは「早く進み過ぎているけど、雑談するような雰囲気でもないしなぁ。どうしよう…」と思っている。
今日の授業中もそんなことがあった。
今、現代文の授業で魚住直子さんの『卒業』という作品を読んでいる。高卒後消防士になって1年目の主人公・寿々が高校時代の友人との関係や仕事に悩みながらも成長していく物語だ。
寿々は初めての火災現場で訓練通りの行動ができず、中隊長に注意を受ける。主人公が失敗したシーンである。そこで生徒たちにこう投げかけた。
「みんなもこれから社会に出るわけだけど、社会に出てミスしたらどうしたらいいと思う?」
もちろん反応はない。でも、ふっと顔を上げて私の方を見る生徒が数名。そのまま話を続ける。
「ミスして自分に非があった時はすぐに謝ることが大切。そしてそれ以上に大事なのは、反省して、ミスの原因を明らかにして、行動に移すこと。反省だけしても次の行動に活かさなきゃ意味ないんだよね。人の心の中なんて見えないから。行動に移してこそ、反省の意味があると思う。私は社会に出てもう4年経つけど、やっぱりこれが大事だと思うな。」
「学校では「ミスしたらどうする?」っていう話をあんまりしない気がする。成功に向けて物事を進めようとするでしょ。もちろん成功に向けて頑張ることも大切なんだけど、失敗したときにどうするかも大切だと思うんだよね。」
こんなことを伝えたら、おそらく上位2割だろうと思う子たちがうんうんとうなずいていた。少しは伝わったかな。
ほとんどの人は言葉では嘘をつけるけど、行動では嘘をつけない。人の心はわからないが、その心遣いは目に見えるのだ。だから、思いは行動に変えていかなければならない。
どうやら私は扱う作品の内容にかこつけて、これからの社会のことなど大事な話をするクセがあるようだ。