カテゴリー化に四苦八苦

プロトコル分析、というかインタビューデータの文字起こしが半分終わったので、インタビューデータをカテゴリー分けする作業に手を付けた。

 

西川先生の著書である教育研究のバイブル、『実証的教育研究の技法』には「(プロトコル分析等の)質的研究は量的研究を補完するものである」というような記述がある。

実証的教育研究の技法

実証的教育研究の技法

  • 作者:西川 純
  • 発売日: 2019/06/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

インタビュー総数は70程度なので量的分析をするにはお粗末なサンプル数だが、できないことはないのでやってみている。

 

インタビュー項目のうち、「就職してから必要だと思った力、経験、技術等はありますか」という質問に対する答えが100余り。これらをカテゴリー化するのに四苦八苦している。

 

「コミュニケーション能力」が圧倒的に多いのだが(全体の3割以上)、それ以外の回答をどのようにラベリングしてカテゴリー分けするかが難しい。回答数が1しかないものは「その他」に振り分けてみたところ、「その他」が2番目に多いという分類になってしまい、頭を抱えている。

 

あまりに細かく分類してもな、と思う一方で、「その他」が2番目に多い分類ってどうなの?、とも思う。

 

こんなことを言うと、西川先生に「『実証的教育研究の技法』に書いてあるから読め!」と言われそうなのだが。

M1の最初は研究する気が1ミリもなかったので買わなかったのが運の尽き。後悔先に立たず。

 

とりあえず「質的研究 カテゴリー分析」で検索してみたら、山口大学の関口研究室のサイトが出てきた。

ステップ5:質的研究におけるデータ分析

web.cc.yamaguchi-u.ac.jp

 

とりあえずこのサイトを参考にしてみようかな。

来週になったら大学の図書館で『実証的教育研究の技法』借りてこよう。

 

昨日のゼミでゼミ長が連携関係の論文の先行研究の部分をまとめていたり、同期の論文が掲載されている臨床教科教育学会の学会誌を目にしたりして、最近は「よし、研究しよう!」という気になっている。

 

その気になっているうちに進めなければ。

10月中旬にはたたき台を作る予定が、今日になっても台すらできていない…

やっぱりセオリー通り

子どもたちは素直だ。今小学校に連携に入っているのもあるけれど、特に小学生の言動は本当に率直だなと思う。

 

今日あるクラスに算数の授業のサポートに入った。テストが返されて、その直しをするという内容だったのだが、問題が解けずに手が止まってしまい、泣き出してしまった子がいた。

 

自由に動いて教え合うことができる状況だったのだが、その泣いている子に声を掛けにいったのは、早々にテスト直しを終えた”できる”子ではなく、その子の少し前に解き直しを終えた”そんなに得意ではない”子だった。

 

「何かわからないことがある場合、理解度が離れた相手よりも自分と同じくらいの理解度の人のところに聞きにいく」というのがセオリーなのだが、まさにそのセオリー通りの行動だなと見ていて思った。

 

また、今日の午後に連携校で体育の『学び合い』実践をした同じチームのメンバーが、実践後大学に戻ってきた。

話を聞いてみると、『学び合い』の初期状態によく起こることが目の前で繰り広げられたのだそうだ。

 

『学び合い』は徹頭徹尾データや研究に基づいているので、しっかりした理論が構築されている。その理論と同じようなことが連携校での実践中も起こるので、『学び合い』が腑に落ちる。

 

やっぱりセオリー通りなんだなぁ。

"幸せ"について国語の授業で生徒たちと考えてみる

夏目漱石の『こころ』のあと何を読もうか?」と教科書をパラパラめくっていたら、おもしろそうな文章に出会った。

 

それが、立松和平さんの『幸せの分量』。『人生の現在地:まだまだ迷っているぞ、私は』という本からの抜粋らしい。

 

この文章には「幸せとは何か」ということに関する筆者の考えがつづられている。

 

文章の後半に印象的なフレーズがいくつか登場する。

 

ともすれば現代は、平凡であることの大切さと幸福を忘れがちになってはいまいか。みんなが自分の才能を過信し、世の中から突出しようとしている。別にそれは悪いことではないが、あまりにもそちらに目が向き過ぎると、世の中は動かなくなってしまう。

 

競争社会とは少しの勝者と、多くの敗者を生み出すシステムなのである。そして、愚直に働いている大多数の平凡な人たちに、敗者というレッテルを貼りつけてしまったのだ。

 

欧米は長い競争社会の歴史をもっている。ゆえに敗者復活のシステムもあれば、競争社会というコンセンサスもあるのだろう。ところが、日本人の体の中には、まだ競争社会が染み込んではいない。その場所での幸せの見つけ方がへただ。敗者になったときの辻褄の合わせ方がわかっていないのである。それがギスギスとした社会不安へとつながっているのではないだろうか。

 

最初に読んだとき、「私が考える幸せとわりと近いなぁ」と感じた。

 

『学び合い』に出会ってからというもの、“一人一人幸せの尺度は違う”ということを強く意識するようになった。

 

「偏差値が高い高校、大学を出て、大企業に就職するのが幸せ」

そんな一元的な尺度で物事を捉えていたら、もし自身がその尺度から外れたときに生きる意味を見失ってしまうような気がする。

 

一人一人思い描く幸せのかたちは違うのだから、生徒たちには、他者の言うもっともらしい「幸せ」を思考停止して追いかけるのではなく、自分にとっての幸せを作り出していってほしいと思う。

 

そのためには「自分にとっての幸せってなんだ?」とちょっと立ち止まって考える必要があると思うのだけれど、『幸せの分量』を授業で扱うことは、このちょっと立ち止まる機会になるんじゃないかな。

 

授業で読み始めて2時間ほどなのだが、もうすでに生徒たちの振り返りシートのコメントはおもしろい。

 

・目先の欲に流されて得る幸せは真の幸せではないと思う。

・仕事も大事だけど家族との時間も大切にしなければならないと思ったけど、両方がうまくいく事はあまりないと思った。

・一度幸福を味わってしまうと、さらに幸福を追いたくなる。そのうち始めの幸福が分からなくなってしまうのだろうと思った。

・ほしい物が手にはいっても、また新しいのが欲しくなるので、人間てふしぎ。

・まず、生きることが幸せであり、働いたり家族をもつことが第2の幸せだと思う。

・日本人は働きすぎだと思いました。でも働かないと生活できなくなるから、調整が難しいと思いました。

 

生徒たちと一緒に幸せについて考えていくのが楽しみになった。

あの判断で本当によかったのだろうか

今日は授業中にもやっとすることがあった。

 

授業を止めるわけにもいかないので、チャイムが鳴った後、ある生徒に声をかけた。

 

そうしたら「大したことはない」というような様子だったので、思わず私は安堵の笑みをこぼし、この件に関する話はそこまでにして教室を出た。

 

でも、教室を出てから今までずっと「あの対応で本当によかったのか」という思いが頭から離れない。

 

もしかしたら、本当は"大したことあった"のかもしれない。

もしかしたら、生徒は顔で笑って心で泣いていたのかもしれない。

もしかしたら、もしかしたら…

 

こんな考えが頭の中をぐるぐるする。

 

あの判断は正しかったのか。あの状況で、あのタイミングで、そして非常勤講師という私の立場で、もっとできることはあったんじゃないのか。

 

教師の一挙手一投足は生徒たちからの視線にさらされている。判断を間違えば、心に一生残る傷をつけるかもしれない。

 

生徒たちの成長に携わることができる教師という職は、もちろんやりがいがあるしうれしいことも多いけれど、それと同じくらい難しいし恐ろしい。

 

教員採用試験の場面指導で面接官相手に演技をするのとは訳が違う。

 

日々「これでよかったのか」と振り返る日々が続くんだろうなぁ。

『こころ』の授業を通して、生徒にどうしても伝えたかったこと

今日は3クラスで夏目漱石の『こころ』の最後の授業をした。夏休み明けから始め、中間考査を挟んで20時間以上の長丁場だった。

 

この『こころ』の授業は、私がひたすらしゃべる"解説"と『学び合い』で進める"演習"を組み合わせてきた。

 

演習の前に解説があることで生徒たちも安心したのか、授業の状態も安定してきた。

 

その一方で、演習の時間は全員達成を生徒たちにあまり求められていないなと感じていた。生徒たちの要望でネームプレートを使わなくなったこともあり、達成状況の可視化ができなくなったため、なあなあで済ませてしまっていた。

 

前後の語りも毎回そこまでしっかりやっているわけでもない。

 

それでも、今日はどうしても伝えたいことがあったので、事前に内容を考え、心を込めて語った。

 

教科書に載っている『こころ』にはKの心情が全く書かれていないので、Kがどう思って自殺を選択したのかというのはわからない。それは、読む人が想像するしかない。だから、これから話すのはあくまで私の解釈ね。

Kが自殺してしまったのは、頼れるつながりがすべてなくなってしまったからだと思う。Kはすでに家族から勘当されていて「お前なんか家族じゃないから帰ってくるな!」と言われていた。だから、「私」が唯一信頼できる人だったんだよね。でも、その親友である「私」にも結局裏切られてしまったので、人とのつながりがすべて絶たれてしまった。だから、自殺してしまったんだろうと思う。

私はみんなには絶対に自殺してほしくないと思っている。そう思うのはなぜかというと、私は知り合いを自殺で亡くしているからで、そのとき本当に辛かったのね。だから、みんなにはそんな思いをしてほしくないと思う。

社会に出たら、自分が困った時は「助けて」と言わないと助けてもらえないことの方が多い。だから、困った時は「助けて」、わからない時は「教えて」って言えるようになってほしい。その方が生きやすいと思う。そして、まわりに困っている人がいたら手を差し伸べられるような人になってほしい。

社会に出て働くようになったら、会社の人との人間関係がメインになる。週5で働いていると他のつながりは作りにくい。だから、高校までの人とのつながりがとても重要になってくる。

私がみんなに裁量を持たせて、任せる授業をしているのは、こういう意図があるんだよね。

↑こんなことを語った。

 

登場人物が自殺してしまうお話など、教科書を見渡しても『こころ』くらいしかない。

だからこそ、どうしても伝えたかった。

 

授業後、ある生徒が私を呼びとめて、「「今つらいことばかりでいなくなりたい」と言っている友達がいた場合、将来楽しいことがあるかどうかなんてわからないから、なんと声を掛ければいいかわからない。先生ならどう言う?」という質問を投げかけられた。

 

一瞬詰まったが、「「それでも私はあなたに死んでほしくない。生きていてほしい」と伝えるかな」と答えた。

 

私はどんなに苦しくても自ら死を選んだら終わりだと思っている。もちろん異論はあるかもしれないし、私のエゴに過ぎないと言われてしまえばそれまでなのだけれど、それでもこれからの未来を担う生徒たちには絶対に自殺してほしくない。

 

私の伝えたいことが、たとえほんの一部でも生徒たちに伝わっていたらいいなと思う。

「ルールを積み上げていく」のか「ルールを壊していく」のか

小学校のいいところは教科の垣根がほぼないところだと思う(中高は教科担任制なので、どうしても教科間の壁は存在する)。

 

今年は学校支援プロジェクトで小学校に行かせていただいているが、体育や音楽、算数、理科など、私の専門である国語とはかけ離れた教科の授業のサポートに入っている。

でも、だからこそ見えてくるものもある。

 

今日は支援プロが終わった後、同じチームのメンバーが先生方と研究のための打ち合わせをしている横で、その話を聞いていた。

 

その研究では、体育のバスケットボールの授業で「全員が楽しめるバスケットボールのする」という目当てのもと、『学び合い』の実践をするのだそう。

 

研究計画や授業の進め方を一通り聞いた連携校の先生がいくつか感想をおっしゃっていたのだが、その中に

「ルールを積み上げていく」というのが常道なのですが、この授業ではいわば「ルールを壊していく」のですね

という指摘があった。

 

特に小学校はスモールステップで「あるべき姿」に持っていくという指導の仕方をすることが多いらしい。例えば、バスケットボールであれば、最初は「ボールを持ったまま3歩以上歩いちゃってもいいよ」というレベルから、徐々にトラベリングを試合中に反則にするというレベルに持っていく。トラベリング、ダブルドリブル等、さまざまなルールを積み上げ、できるようにして、バスケットボールという形にしていくのだ。

 

一方、今回の『学び合い』の実践では「全員が楽しめる」というのがゴールなので、ルールにはそこまでこだわらなくてもよいことになる。一人でも楽しめない人がいれば、その人の意向をもとにルールをややり方を変えていくことができる。

 

幸い(?)、連携校の先生方は「実際にやってみないとわからないですしね」「楽しみです」と『学び合い』の体育の授業に肯定的なようだった。ただ、同じことでも「ルールを変えることができる」と捉えるか「ルールを壊していく」と捉えるかで、見え方は大きく変わってくるんだなと感じた。

 

 

また、先生から

「全員が楽しめる」ということの定義はありますか?

という質問もあった。

 

「楽しめる」というのは主観的な判断によるものである。それは教員が決めるのではなく、実際にバスケットボールをする子どもたちが決めることだと思う。

 

ただ、話を聞いていて、「全員が楽しめる」というのが具体的にはどういうことなのかを子どもたちに考えさせる時間をとらないと、目当てが曖昧なままでなあなあになったり、子どもたちが混乱したりするかもしれないとちょっと思った。

 

このことについて、他の先生の授業を見ていて、いいなと思うことがあった。

 

先日、連携校のある先生(西川研のOB)が体育のハードルの授業で「ミニハードルやコーンを使って、グループごとに”走りやすい”コースを作る」という目当てを提示した。その際、「”走りやすい”ってどういうことだと思う?」と子どもたちに投げかけ、子どもたちから「スムーズに走れる」という意見が出た。

 

”走りやすい”というのも主観的な判断によるもの。ただ、「走りやすい=スムーズに走れる」という具体例が子どもたちから出たことで、子どもたちはコースをどのように作ればよいかイメージしやすかったのではないかと思う。

 

同じ”走りやすい”という目当てで作ったコースでも、グループごとにコーンを置く向きや障害物の間隔が異なっているのがおもしろい。

 

必要に応じて目当ての具体化が必要なのかもしれないと感じた瞬間だった。

自分の声は変えられないけど、声の出し方は変えられるはず

個人研究のプロトコルをコツコツと進めている。家だと絶対にやらないので、時間を見つけては研究室に行き、文字起こししている。

 

企業で働く方の分は50人以上あったはずなのに、あと7人くらいになった。終わりが見えるとなんとなくやる気になる。

 

まぁ、あと少なくとも高校の先生の分のプロトコル分析と回答のカテゴリー化が残っている。実を言うと追加調査も終わっていない。一人でやっている研究なので、基本的に自分でやるしかない。そう考えると、ゼミの同期がやっているような共同研究っていいなぁと思ったりする。

nbnl-takashi.hatenablog.com

 

プロトコル分析をしていると、さまざまな”声”に出会う。

すでにインタビューさせていただいた方たちのデータなので、「再会する」という方が正確なのかもしれない。でも、インタビュー時は「どうすれば答えを引き出せるかな」というので頭がいっぱいなので、相手の”声”にまで注意を払っている余裕はないことが多い。

 

今日最初に聞いた”声”はとても安心する声だった。注意深く聞いていると、ちょうどいいタイミングで相槌を打っている。わりと初期のインタビューだったのにやりやすかった気がするのは、その方の声や話し方のおかげなのかなと思った。

 

 

”声”と言えば、先日西川先生が他ゼミの同期に「いい声してるねぇ」とおっしゃったのを皮切りに、声の話になった。

 

「通る声」と「通らない声」というのは確かに存在する。

先ほどの同期の声は「通る声」。声を張り上げている感じはしないのに、きちんと耳に届く。

一方、私の声は「通らない声」。相当声を張り上げない限り、遠くにいる人には聞こえない。だから、講師をしていた際、生徒を並ばせたりするときは「こっちだよー!」などと声を張り上げるのは他の先生に任せ、「2列で並んでね」などと近くで細かい指示を出すことに専念していた。

 

ただ、不思議なことに「私の声が聞こえない」と言ってきた生徒には出会ったことがない。

通らない声なりに教壇に立つとスイッチが入るのかな?

よくわからないけど。

 

西川先生の著書である『新任1年目を生き抜く 教師のサバイバル術、教えます』では、声の出し方について言及されている。

新任1年目を生き抜く 教師のサバイバル術、教えます

新任1年目を生き抜く 教師のサバイバル術、教えます

  • 作者:西川 純
  • 発売日: 2015/02/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

話す内容よりもまずは声が聞こえるかどうかの方が大切なのだ。

 

声の出し方はあまり意識してこなかったけど、ちょっといろいろ試してみようかな。

自分の声とは一生付き合っていかなければならないけれど、声の出し方は変えられるはず。