「解説がわかりやすい」というのはもちろんうれしいことなのだけれど

先週から、割り切って解説の時間と演習の時間を分け、前者は一斉授業、後者は『学び合い』でやるようになった。

 

ちゃんと(?)解説するようになったからか、振り返りシートのコメントには「解説がわかりやすいです」「解説のおかげでより深く理解できました」というようなフレーズが並ぶようになった。

 

もちろん「解説がわかりやすい」というのはとてもうれしいことだ。

 

絵が下手なりに文章を図解したり表にまとめたりして、視覚的に内容をつかみやすくするような工夫はしている。

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(今授業でやっているのは、夏目漱石の『こころ』)

 

ただ、私が親鳥、生徒たちが雛鳥で、雛鳥の口に餌を運んでいるだけのような気がしてならない。

 

おそらくクラスの中には私が書くレベルの図解などやすやすとやってのける生徒はいるだろう。

 

私が解説しなくても理解できるようになればもっといいのになぁ、と思う自分もいる。

 

あ、もちろん私の解説で理解するの"も"アリだが、一斉授業で全員に対して解説をする必要はないのかなぁ、と。

 

ただ、今はこのスタイルが生徒たちには合っているのだろうと感じる。

 

「今のやり方でやってほしい」というコメントもちらほら。

 

私だけ一足飛びで進もうとしてもうまくいかないのは身にしみて分かったので、生徒たちの様子を見つつじっくりと進めていく必要がありそうだ。

 

私の思いやどうなってほしいかを折に触れて語ることは忘れずに。

 

最近解説の比重が大きくなったこともあり、語りがおざなりになっている気がするので、明日が勝負かな。

「答えを前に置いてほしくない」に対する私の答えは…

このところ、演習の時間を『学び合い』で進めている。

 

前々回の授業で「(『学び合い』のときに)答えを前に置いてほしくない。答えを読み上げる人がいて勉強にならない」と書いてきた生徒がいるクラス。

 

これに対する答えが、私の今日までの宿題だった。

 

昨日の授業で生徒に問いかけてみたら、いろいろな意見が出た。

「不安なとき確認したいから前に置いておいてほしい」が多数。

「置かないでほしい」はごく少数。

 

ただ、少数とは言え、わざわざコメントに書いてきてくれた以上、華麗にスルーするわけにはいかない。

 

それに対する私の答えは…

開始後10〜15分したら教室の前後に答えを置く」というもの。

 

今日の最初の語りは、上記の答えに加え、

・とりあえず今日はこの方法↑でやってみて、不具合が出たらまた考える

・なぜ答えを前に置いておくのか

という内容を中心に語った。

 

そして、「声のボリューム、トーンを考えて行動してほしい」と伝えた。

 

おそらく、答えを前に置いてほしくない子は、置くこと自体が嫌なのではなく、一生懸命取り組んでいる中で他の生徒が周りに聞こえる声で答えを読み上げている状況が我慢ならなかったのだろうと思う。

 

課題が終わった後、課題とは関係ない話で盛り上がり、うるさくなっていたのを「どうしたものかなぁ」と感じつつも放置していたので、いい機会かもしれないと思い、生徒たちに伝えた。

 

目を閉じれば見たくないものは見なくて済むけれど、音は聞きたくなくても耳に入ってきてしまう。だから、声のボリュームやトーンに気をつけてほしい

 

思いが伝わったのか、今日はギリギリまで課題に取り組んでいる生徒が多く、いつもより騒がしくなることは少なかったように感じた。

 

とりあえず、よかった。

ほっと胸を撫で下ろす。

 

 

最近は演習の時間中、机と机の狭い間をくるくると回り、生徒たちに声をかけるようにしている。

 

「せんせー、ヒントください」とか「わからん」と自分から言ってくる子もいるし、手が止まっている子には「今どこやってる?」「お! よく書けてるねー」「んー、これだとちょっと足りないかなぁ」と声をかけてみる。

 

正直、全体に目を配って見取ることができているかと言えば、そうではない。授業中に全体を眺められるのは、せいぜい1,2度くらい。

 

それでも、今は生徒たちとコミュニケーションをとることを優先すべきだと思っているからそうしている。

 

今の私には、生徒たちとコミュニケーションをとりつつ、全体に目を配って生徒たちの行動を見取るのを同時にやってのけるのは荷が重い。どちらかを選択するしかない。

 

もちろん、今までよりも全体の見取りが甘いことによる問題は今後出てくるだろうけど、そうなったら素直に謝って語りなおすしかない。

 

これも、私なりの折り合いのつけ方なのかな、と思ったり思わなかったり。

「長い目で見る」は、ただ見ているだけではだめであって

先週、振り返りシートに「解答を前に置かないでほしい。まわりに聞こえる声で読み上げられると勉強にならない」というコメントが寄せられた。

 

それを見たとき、ハッとした。

「細かいことに一喜一憂せず、長い目で見ていく」という大義名分(?)のもと、生徒たちの言動を見逃していたことに気づいた。

 

たしかに、グループの内1人が前の教卓に行き、グループのメンバーに聞こえるように解答を読み上げてそれを写して終わりということをしている生徒たちが何人かいた。

 

ただ、「仕切り直したばかりだし、細かいことをいちいちあげつらってもなぁ…」という思いが私の中にあって、見て見ぬふりをしていたのは事実だ。

 

教師は言うべきことを言わなければならない。

 

今日の授業の終わりにこのことを語り、演習で『学び合い』をするときに解答を前に置くことの是非を問うた。

そうしたら、さまざまな意見が寄せられた。

 

・分からない時は確認したいから前に置いておいてほしい

・勉強にならないから置いてほしくない

・始まって少し時間がたってから置いてみたらどうか

・前だけだと通路が狭くて確認しにくいから、後ろにも置いてほしい…etc.

 

聞いてみないとわからないものだなぁと思う。1人の生徒の声がなければ、気づかずにいたかもしれない。そう考えると恐ろしい。

 

明日がちょうど演習の時間だから、どうしようかなぁ…迷い中だ。

どうするのが生徒のためになるのか。うーん…

 

 

また、今週の演習の時間からネームプレートを使わずに進めている。

使わなくなって初めて、今までどれだけネームプレートに頼っていたのか、可視化されないことによる困難を感じている。

 

「自分(+仲の良い数人)が終わればいいや」という感じの雰囲気が如実に出てきた。

 

そうじゃないんだよなぁ、と思いつつ、何をどう語れば2割にささるのか考えあぐねている。

 

 

今表面化してきている課題は、どれも「長い目で見るのだ」と思いつつ、ただ”見る”だけだったツケが回ってきたためのものだと感じている。

 

”見る”だけではだめなのだ。

最初と最後の語り、授業中の自身の挙止動作、見取りなど、様子を見る前にやるべきことはたくさんある。

 

昨年の特別支援の講義で先生がおっしゃっていた、「ただ様子を見るだけじゃだめで、対策を講じてはじめて様子を見ることができる」ということを実感する。

 

なるべく生徒の思いを汲み取りつつ、まわりに相談しつつ、試行錯誤しながらやっていくしかないのだろう。

 

そして、間違ったり、自分が至らなかったらすぐに謝る。

最近は各方面に謝りっぱなしな気もするが、それだけ自分が未熟なのだと思う。

 

昨日から稲刈りが始まったけれど、稲穂のように謙虚でありたい。

外国籍の子どもたちも共に安心して学ぶためには…

昨日の『純』喫茶(西川研究室で定期的に開催している、オンラインでゆるっとお話しする会)で小学校の先生とお話をした。

 

その方も『学び合い』に近いことをやっていらっしゃるようだ。

 

その方の勤務先は外国籍の子の割合が大きく、中国、インド、フィリピン等さまざまな国をルーツとする子たちがともに学んでいるのだそう。

 

当然、日本語の習得具合も一人一人違い、ほとんど話せない子からペラペラの子までさまざま。

 

そんな状態でどうやって授業をしているのだろうと不思議だったのだが、基本的に日本語で進めているらしい(英語の指示はいくつか準備しておくそうだが)。

 

そして、最も割合の多い中国からの子たちは、日本語も話せる子が全く話せない子の手助けを自然としているので、『学び合い』が成立しているのだそうだ。

 

外国籍の子たちは国際クラスも併用しているそうだが、国際クラスは外国から来た子たちが対象なので、日本で生まれ育ったけれど日本語が苦手な子は対象外らしい。初めて知った。

 

昨日お話しした方曰く、「母語は大切」。

日本語でも、外国語でもいいが、軸足になる言語があるのとないのとでは大違いなようだ。

 

保護者が「この子は日本語しか話せない」と言っていても、実際は日本語も満足に理解できていないというケースもままあるらしい。

 

そういった子たちは支援の対象にならず、隙間からこぼれ落ちてしまう可能性も高い。

 

https://this.kiji.is/674236603083998305?c=113147194022725109

文科省が外国籍の子どもたちの支援のため、語学指導員を拡充する方針を固めたそう。

 

このような公的な支援に加え、子どもたち同士が支え合い、学び合えるような雰囲気を作っていけたらいいなぁと感じた。

直江津のMUJI BOOKSに夢中♪

直江津にできた無印良品内にあるMUJI BOOKSに行ってきた。

 

直江津の無印には昨日初めて行ったのだが、見惚れてしまって結局何も買ってこなかったので、今日もう一度行ってみた。2日連続で行きたいと思う本屋さんは初めてかもしれない。

 

何に見惚れたかと言うと、"本の魅せ方"である。

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スペースが広々としていて余裕があるためか、本や雑誌の表紙が見えるように置いてある。

 

本を"ジャケ買い"することが多い私は、もうこの時点でワクワクが止まらない。

 

本棚で通路ができていて、さながら本の迷路に迷い込んだよう。

 

展示方法も他の書店とは異なり、テーマごとに並んでいる。

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アートがテーマの棚には、画集やアートをテーマにした新書、鑑賞に関する本など、普通なら一緒に並ばないだろうなと思う本たちがまとまってそこにいた。

 

本棚の脇に、本の一節とその本がディスプレイされているのも素敵!

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また、至るところにソファやベンチが設置されていて、小さな子が声に出して絵本を読んでいるのをお母さんやお姉ちゃんがニコニコしながら見ていたり、買った本をじっくり読み進めている人がいたりして、本を介した豊かな空間が生まれていた。

 

私が特に気になったのは『アーブル美術館 大贋作展』と『空からのぞいた桃太郎』の2つ。

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今まで無印に本のイメージはなかったのだが、直江津MUJI BOOKSには素敵な空間が広がっていた。

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「いい言葉とともに暮らすこと」がコンセプトのよう。

 

私は歌うのも絵を描くのも苦手なので、表現方法はどうしても言葉に頼ることになる。

 

だから、言葉を大切にしたいし、いい言葉に囲まれていたい。

 

いい言葉たちに囲まれるため、時折MUJI BOOKSに行こうと思った。

 

直江津MUJI BOOKSおすすめです!

なかなか自由な移動が叶わないご時世ですが、上越に来る機会があればぜひ。

覚悟を決める

有言実行と不言実行のどちらがいいのかは人によって意見が分かれるところだけれど、明らかにダメなのは決まっている。

 

「有言不実行」

 

安請け合いして結局できないのは最悪だ。

信用を失う。

 

信用は築くのは大変だけど失うのは一瞬。

 

安請け合いしないためには、自分のキャパをちゃんとわかってないといけないのだけれど、いまいち私は自分のキャパがよくわかっていない。

 

今までわりといっぱいいっぱいでもなんとか乗り切れていた(気がする)ので、自分自身はまったく成長していない。

 

引き受けたからには責任を持ってやる。

 

優先順位をつけて、場合によっては下の方からスクラップする。

 

もし何かあったときに「まぁ、しかたないよね」「大丈夫だよ」と言ってもらえるような関係を普段から作っておく。

 

連携プロジェクト、研究、非常勤、家庭教師、バイト…

 

やることはいっぱい。

身体が2つほしいくらい。

 

でも、引き受けたからにはやらねばならないのだ。

 

覚悟は決めた。

これまで以上にうまく立ち回らなければ。

 

必要に応じてまわりの力を借りて。

きっとあの子は上位の2割

最近、スマホ指紋認証がうまくいかない。

2回くらい試して、それでもダメでパスコード入力、という場面によく出くわす。

 

「なんでだろう?」と思って親指をまじまじと見てみたら、やっとわかった。

 

指の腹の表面が荒れて、皮がむけていたのだ。

 

こうなった原因は1つしかない。

チョークである。

 

親指、人差し指、中指が特に荒れているのが何よりの証拠。

 

それだけ、解説のためにチョーク使って板書をしているんだなぁ、と妙なところで関心してしまった。

 

 

「『学び合い』は週に1〜2回程度、演習のときだけ」と決めて、生徒にも了承を取ってからというもの、心理的な負担はだいぶ軽くなった。

 

これも暫定的なもので、これからも生徒たちが学びやすいように必要に応じて柔軟に変えていくつもりではあるのだけれど。

 

クラスによって当然進み具合は違うので、50分の授業をどう組み立てていくかに頭を悩ませる毎日。

 

 

今日の振り返りシートに、

「前に答えを置くのをやめてほしい」というコメントがあった。答えを読み上げる人がいて勉強にならないのだと言う。

 

あぁ、そう言えば「なぜ答えを前に置いているのか」について語っていなかったと反省。

 

「なぜ?」の部分を、上位2割がわかるように最初にきちんと語る必要性を実感する。

 

・なぜ授業のほとんどを任せるのか

・なぜまとめをしないのか

・なぜネームプレートを使うのか

・なぜ板書をしないのか

・なぜ答えを前に置いておくのか…etc.

 

特にいわゆる一斉授業と形式上違う部分については、「なぜ?」の部分を最初に伝えておかなければならない。

 

それがきっと生徒たちの心理的安全につながるような気がする。

 

人は変化することを避けようとする。

多くの場合、今まで通りが心地よいから。

 

それでも変えねばならないときは、少なくとも2割がわかってくれるように語らなければならない。

 

「振り返りシートにはこれを書け」なんてことは一言も言っていないのに、それでもクラスのみんなの様子や「こうしてほしい」という要望を書いてくれる子は、おそらく上位2割なのだろう。

 

そして、きっと、まだ私のことを見限ってはいないのだろう。

 

そうした子たちに対して私の願いを伝えていくことが私の重要な仕事のひとつ。

 

何を、どう伝えるかは…来週までの私の宿題かな。