「長い目で見る」は、ただ見ているだけではだめであって

先週、振り返りシートに「解答を前に置かないでほしい。まわりに聞こえる声で読み上げられると勉強にならない」というコメントが寄せられた。

 

それを見たとき、ハッとした。

「細かいことに一喜一憂せず、長い目で見ていく」という大義名分(?)のもと、生徒たちの言動を見逃していたことに気づいた。

 

たしかに、グループの内1人が前の教卓に行き、グループのメンバーに聞こえるように解答を読み上げてそれを写して終わりということをしている生徒たちが何人かいた。

 

ただ、「仕切り直したばかりだし、細かいことをいちいちあげつらってもなぁ…」という思いが私の中にあって、見て見ぬふりをしていたのは事実だ。

 

教師は言うべきことを言わなければならない。

 

今日の授業の終わりにこのことを語り、演習で『学び合い』をするときに解答を前に置くことの是非を問うた。

そうしたら、さまざまな意見が寄せられた。

 

・分からない時は確認したいから前に置いておいてほしい

・勉強にならないから置いてほしくない

・始まって少し時間がたってから置いてみたらどうか

・前だけだと通路が狭くて確認しにくいから、後ろにも置いてほしい…etc.

 

聞いてみないとわからないものだなぁと思う。1人の生徒の声がなければ、気づかずにいたかもしれない。そう考えると恐ろしい。

 

明日がちょうど演習の時間だから、どうしようかなぁ…迷い中だ。

どうするのが生徒のためになるのか。うーん…

 

 

また、今週の演習の時間からネームプレートを使わずに進めている。

使わなくなって初めて、今までどれだけネームプレートに頼っていたのか、可視化されないことによる困難を感じている。

 

「自分(+仲の良い数人)が終わればいいや」という感じの雰囲気が如実に出てきた。

 

そうじゃないんだよなぁ、と思いつつ、何をどう語れば2割にささるのか考えあぐねている。

 

 

今表面化してきている課題は、どれも「長い目で見るのだ」と思いつつ、ただ”見る”だけだったツケが回ってきたためのものだと感じている。

 

”見る”だけではだめなのだ。

最初と最後の語り、授業中の自身の挙止動作、見取りなど、様子を見る前にやるべきことはたくさんある。

 

昨年の特別支援の講義で先生がおっしゃっていた、「ただ様子を見るだけじゃだめで、対策を講じてはじめて様子を見ることができる」ということを実感する。

 

なるべく生徒の思いを汲み取りつつ、まわりに相談しつつ、試行錯誤しながらやっていくしかないのだろう。

 

そして、間違ったり、自分が至らなかったらすぐに謝る。

最近は各方面に謝りっぱなしな気もするが、それだけ自分が未熟なのだと思う。

 

昨日から稲刈りが始まったけれど、稲穂のように謙虚でありたい。