夏目漱石の『こころ』で生徒に何ができるようになってほしいのか考えてみた

2学期になってから授業で扱い始めた、夏目漱石の『こころ』が佳境に入ってきている。

 

大学院に入ってからは、「教材”を”教える」から「教材”で”教える」にシフトしようとしてきていると思う。

最初に学習指導要領を読んで目標を考えたり、「この問題ができるようになることで、生徒たちにどうなってほしいか」を考えるようになったり。

 

『学び合い』は究極「教科なんて(正直)そこまで重要ではない」というスタンスだが、国語の授業をしている以上、「国語を通して何を身につけてもらおうか」という視点は私には欠かせない。

 

今のところ、私が夏目漱石の『こころ』で生徒に身につけてほしいのは次の3つ。

①主人公を通して自身をメタ認知する力

教科書に掲載されている『こころ』の「先生と遺書」部分は、一貫して「私(=先生)」の視点でお話が進んでいく。「私」の心情を追いかけやすい。

『こころ』のキーワードのひとつは「利己心」である。「私」は自分の恋のために、恋敵となったKをあの手この手で攻撃し、最終的にはKを出し抜く形でお嬢さんとの結婚を取り付ける。「自分さえよければそれでよい」という利己心が「私」の行動には透けて見える。

ただ、この利己心は誰しも多かれ少なかれ持っているものである。純粋に利他的な行動だけで生きている人を私はまだ見たことがない。

利己的に行動してばかりだと、いずれまわりからそっぽを向かれる。自分の利己心とどう折り合いをつけて生きていくかは重要なこと。

自分のことは意外と見えていないことが多いが、小説を読んでいて神の視点で登場人物を見ていると「あぁ、なんでこんなことするかなぁ?」「こうすればいいのに」と思うことがある。

でも、それだけでは不十分で、もう一段抽象化して「自分にもそんなことないかな?」という視点が大切なのだと思う。「自分はこの主人公ではないから関係ない」ではなくて、小説を読むことが自信をメタ認知するきっかけになればいいな。

「「私」がKにしたことはひどい!」とか「「私」はずるがしこい」というコメントが生徒の振り返りシートで見られたが、さらにその先に行くにはどうすればいいのか…ただいま絶賛悩み中だ。

 

②感情を言葉で表現する力

小説には心情を表現する言葉が数多く出てくる。

「侮蔑」「ぎょっとする」「得意になる」「煩悶」「懊悩」「勇気を振り起す」「優柔」「きまりが悪い」「ひやひやした」

↑今生徒とともに読んでいる『こころ』にも、ざっと見る限りこんなにさまざまな心情を表す言葉が使われている。

こうした心情を表す言葉を普段そのまま使うかというと、必ずしもそうとは言えない。ただ、自分の手持ち以外にも感情を切り分ける言葉があることは知っておいてほしいと思う。

感情を適切な言葉で表現することは、感情をコントロールすることにつながる。負の感情は特に。

登場人物の心情を本文の言葉や自分の言葉を使ってまとめる経験を通して、 感情を言葉で表現する力をつけてほしいなと思う。

 

③進退窮まったときに最悪の選択をしないこと

「私」・K・お嬢さんの三角関係はKの自殺という形で幕を閉じる。

Kは養家から絶縁され、実の親からも勘当され、頼れるのは同郷の幼馴染である「私」くらいしかいなかった。しかし、「私」にも裏切られ、最終的に自ら死を選ぶ。

「Kが死を選ぶ前に相談できるようなつながりがあったなら」と思ってしまう。

現在、10代~30代の死因の第一位は残念ながら自殺である。

これから社会に出ていく生徒たちには、もしどうしようもないほど追い詰められたときに、最悪の選択をする一歩手前で踏みとどまれるようなつながりを持っていてほしい。そしてできれば、どうしようもないほど追い詰められる前に相談できるような自分の居場所を複数持っていてほしい。

『学び合い』でそうしたつながりを作ることができたとしたら、こんなにうれしいことはない。

 

今後の授業で、生徒たちに上の3つのことを伝えていきたいと思っている。