「役に立つ」って難しいな

「高校で学んだこと、経験したことの中で、働いてから役に立ったことはありますか?」

↑個人研究のインタビュー項目のひとつである。

 

ふと「役に立つ」ってどういうことを言うのだろう、と疑問に思った。

コトバンクでは、「使って効果がある。有用である。」と書かれていた。(https://kotobank.jp/word/役に立つ-647767

この「使って効果がある」というのがくせものである。実際に使ってみないと効果がわからないのだ(当たり前のことなのかもしれないけれど)。

 

OJTのように今の自分に必要なことをその場で学んで実践できるのであれば、まだ「役に立つ」ことを実感しやすい。しかしながら、学校現場で子どもたちが(特に教科学習で)学ぶことについては、いくら教員が「将来役に立つ(かも)よ」と言っても、子どもたちはすぐに働ける状態にはないのだから、役に立つという実感は持ちにくい。

 

そもそも、教科内容は社会に出て働くうえでたいして役に立っていないという研究論文もあった気がする(詳細は忘れてしまったけれど)。大学院に入ってそのことを聞いたときはびっくりしたけど、その一方で「たしかにそうだよな」と納得している自分もいた。

 

私は国語の教員になりたいと、それこそ中学生のときから思っていたから、国語の授業で学んだことは働く上でも役に立っていた。でも、それは私が国語の教員であるからであって、他の教科、例えば数学の二次関数が役に立っているかというとまったくと言っていいほど役に立っている実感はない。日常生活で複雑な計算をする機会はないし、計算なら電卓やExcelでもできてしまう。また、化学の周期表も覚えたけど、普段の生活で「これはどの元素からできているんだろう?」なんていちいち考えることはない。

 

振り返ると、講師をしていたときの私は「将来役に立つ(かも)よ」というフレーズを免罪符に、教科内容を教えることに躍起になっていたのではないかと思う。本当に子どもたちにとって役に立つのかどうかもわからないのに。そして、その検証をする気もないのに。

 

今さらだけど、教え子たちには「罪なことをしてしまった」と感じる。古文の助動詞の活用について説明している時間で、今後の社会のこととか、幸せに生きていくために必要なことについて語ることもできたはず。これが、教員という仕事の恐ろしいところでもあると思う。

 

ただ、ここで過去の行いについて懺悔しているだけでは何も始まらない。

だから私は前に進む。もちろん教え子たちのことは心に留めながら。

 

まだ「役に立つ」ということについては迷いもある。

・高卒で働くとして、高校段階で何をすれば将来「役に立つ」のか?

・「役に立つ」かどうかで取捨選択して良いのか?

・一人一人「役に立つ」ことは違うのに、それを公教育でどう保障する?…etc.

 

結局は「現状『学び合い』が一番マシ」というところに落ち着きそうだけど、それだと研究にならないような気もするし…

 

なやみはつきないなぁ。研究しているんだもの。

(しをり)