コロナウイルス(COVID-19)が世界中で猛威をふるっている。
WHOがパンデミックを宣言し、東京オリンピック・パラリンピックも延期されることになった。
その一方で、文部科学省は4月の学校再開に向けた指針を通知。教育現場は大丈夫なのだろうかと心配になる。
今でこそ世界中で感染が拡大しているが、中国で最初に感染が確認されてからというもの、主にアジア系の人々に対するコロナウイルス関連の差別について目にする機会が何度かあった。
ちょうどそんなときに目に留まったのが、ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』。
この本は、英国在住の著者が、自身の息子やその友人たちの中学校生活を書き綴ったものである。レイシズムや差別、社会の構造等に関する著者の息子の質問には、はっとさせられることも多い。
中でも気になったのは、以下の2つ。
多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らす
近年、「多様性=よいもの」とする風潮がある気がする。実際、私もそう思っていた。多様性の尊重やそれによる共生社会の実現はとても重要なことである。
ただ、「多様性」自体は正直面倒なものだ。多様性はけんかや衝突の原因になりうる。みんな同じならいろいろ考えなくて済むし、その方がはるかに楽である。
しかし、楽な状態では人々は学ぼうとしなくなるし、知ろうとしなくなる。学ぶこと、知ることにはエネルギーが必要だからだ。その結果、無知になってしまう。
人間は、知らないこと・わからないことに対して恐怖心を抱きやすい。無知であればあるほど、恐れるものが多くなり、まわりに対して攻撃的になってしまうのだろう。
この本で示されていた、「無知であることは頭が悪いこととは違う」という視点も大切だなと感じた。知らないことは、知ることができれば無知ではなくなる。
誰かの靴を履いてみること
「エンパシー(empathy)」はこの本における重要なキーワードの1つだ。
エンパシーと混同されがちな言葉である「シンパシー(sympathy)」は「感情の行為や理解」という意味を持つ一方で、エンパシーは「他人の感情や経験などを理解する能力」らしい。
シンパシーの方はかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力しなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。
(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p.75より)
作者の息子は、シティズンシップ・エデュケーションのテストで「エンパシーとは何か」と問われた際に、
「自分で誰かの靴を履いてみること」
と答えたそうだ。言い得て妙だと思う。
私は国語が専門なので、「国語を学ぶ意義」について考えることも多い。
(まぁ、『学び合い』にどっぷり浸かると、教科なんかどうでもいいと思わないでもないのだが、中高の教員を志望している以上、教科という枠からはなかなか逃れられないのだ)
私が今のところ考える「国語を学ぶ意義」の一つに、「想像力を養うこと」というのがある。ただ、「想像力」という言葉がどうもふわふわして捉えどころがなく、困っていた。
この本を読んで、「想像力」はエンパシーに近いものなんじゃないかな、と思いつつある。
もう少し考えてみよう。