一斉授業と『学び合い』ではしんどさの種類が違う気がする

現在進行形で一斉授業も『学び合い』も実践している身としては、両者のしんどさには違いがあるような気がしてならない。

 

『学び合い』では後出しができない。だから課題づくりや指示の出し方には特に気を遣う。上位2割が誤りなく理解することができるか、課題の量や難易度は適切か、いろいろと考えだしたらきりがない。準備にはけっこう時間がかかると思う。

 

授業時は生徒に任せる時間が長いので、その間は集団の様子をじっくりと眺めることができる。生徒たちの良い行動を見取って語るために頭はフル回転だが、それでも授業をしていて楽しいと感じることが多い(もちろん心理的に余裕があればの話だが)。

一方、集団の闇が見えることもある。ただそれは教師だけが抱えることではなく、生徒たちとともに考え、乗り越えていくことだ。闇が見えたり、気になる子がいるのは苦しいが、それでも一人で抱え込まなくていいという点で少し気は楽だ。

 

一斉授業は、正直そこまで準備に時間はかからない。どんなに時間が取れなくても、板書案や話す内容をある程度考えればその場でどうとでもなってしまう。実際、今日の授業のために昨日授業準備に要したのはせいぜい15分くらいだったと思う。

 

授業時も主導権は教師である自分にあるので、後出しはいくらでもできてしまう。ペースも自分で調節できる。

 

ただ、生徒たちの様子を見ていると心が苦しくなる。早く書き終わった子はぼーっとしているし、書くのが遅い子は必死になって書いても追いつかない。時間の関係で7割がた書けたかなというところで説明を始めてしまうが、いつも心の中で「ごめんね…」と思っている。

午後の授業でクラスの半数が寝ていたりすると、本当にしんどい。彼ら彼女らに価値ある時間を提供できていないのがとてもつらい。

 

常勤講師として新しく採用された際の新人研修で「保護者は学費をこんなに払ってくれている。これは私たちの教育に対して期待してくれているということでもある。その学費分に見合うだけの授業ができているのか、振り返ってほしい」というようなことを言われた記憶がある。

 

「学費分(給料分)の仕事ができていない自分はダメだ」と自己嫌悪するのは精神衛生上よろしくないのでなるべくしないようにはしているが、この研修時に言われたことは今でも自分の中に戒めとして残っている。

 

この授業は生徒たちの将来の幸せを保障するものになり得ているだろうか。

このことを常に念頭に置いて、現状に折り合いをつけつつ、自分にできるベストを尽くしていかなければならないと改めて感じた。