外山滋比古さんの文章から「書かれた文章を読むことと話すこと」について思いをめぐらせてみた

本日格闘した現代文の問題の出典が、外山滋比古さんの『知的な聴き方』だった。

知的な聴き方 (だいわ文庫)

知的な聴き方 (だいわ文庫)

 

人間は、決して、ものごとをあるがままに表現することはできない。思ったことをそのまま表現することもできない。

はじめに、話す言葉に”翻訳”して、話にする。その話に、さらに、文章化の翻訳を加えて、文章が生まれる。

文章は元の思い、考え、ことがらに二重の翻訳を加えたものであることになる。

 

一部抜粋された問題文の中の一節だが、 読んでいてはっとした。

 

人間は多くの場合言葉を通してしか自分の思いを伝えることはできない。

 

自分の中の形にならない、もやっとしたりふわっとしたりしている思いを言葉に当てはめ、相手に話して伝えようとする。

 

さらに書いて伝えるとなれば、書き言葉の方が話し言葉より制約が多いので、元の思いからはさらに離れたものになってしまうかもしれない。

 

私たちが読んでいる本の裏に膨大な数の編集や修正が存在することは、実際に西川研究室の一員として本を執筆してみて初めて知った。本当に大変だった。(この話はまた今度することにしよう)

 

本を読むと、頭の中でその本の作者と対話することになるのだが、本は作者が伝えたい膨大な量の思いをある意図に沿って編集しまとめたものなので、取捨選択の結果捨てられてしまった作者の思いは字面から想像するしかない。

 

本の作者全員とリアルで話ができれば、文章化するにあたって削られてしまった思いを知ることができるのかもしれないが、それは現実的には不可能である。

 

そういう点で、『学び合い』の本のほとんどを執筆してきた西川先生と、少なくとも2週に一度は対面して話すことができる今の環境はかなり贅沢なんだろうなぁ。

 

書かれた文章を読むことに比べ、話すことの方が下手な編集が入っていない分その人の思いに近いのだと思う。だから、その人の思いを理解しようとするには膨大な対話が欠かせない。

 

「西川研究室の魅力は実際に入ってみなければわからない」と皆が口をそろえて言うのも、この「話すことの蓄積」にあるのだろう。やっぱり文章だけでは伝えきれないのよね、西川研の雰囲気は。

 

↑なんてことを、帰りのバスの中でぼーっと考えていた。