先日、お茶の水女子大学名誉教授の外山滋比古さんが亡くなった。96歳だったそうだ。
外山さんと言えば『思考の整理学』である。
たしか私が大学生くらいだった時、「東大・京大で1番読まれた本」としてメディアで取り上げられていたような記憶がある。私の手持ちの本にも、本の表紙の半分以上を覆う勢いの帯にそう書かれている。
『思考の整理学』について思い浮かべると真っ先に出て来るのが、「グライダー人間」と「飛行機人間」の例えである。
学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。(p.11)
本の冒頭に登場する比喩なのだが、言い得て妙だなぁと思い、強く印象に残っている。
子どもたちがみんな席に座って黒板の方を向き、先生の説明を聞いて学んでいる(気になっている)のを、自力では飛べないので風が吹く方向に従って飛んでいくしかないグライダーの様子に例えているのが、これ以上の表現はないのではないかと思うくらいぴったりとはまっている。
現在の学校教育でも、”飛行機人間”は居づらい思いをしているのだろう。もしくはドロップアウトしてしまっているかもしれない。
N高などの広域通信制やフリースクール等、”飛行機人間”の居場所になるような学校が登場してはいるが、学校が飛行機人間を排除してしまうのではなく、1人残らずみんなが共に学べるような場になったらもっといいのに、と思う。
そして、グライダー要素が強かったとしてもエンジンを搭載させるにはどうしたらよいのか考えていかなければならないと感じた。もちろん、みんながみんなエンジンを持たねばならないというわけではないのかもしれないけれど。
ただ、外山さんが本の中で指摘しているように、グライダー能力と飛行機能力の両者はひとりの人間の中に同居している。教師があれこれと気をまわしてやってしまったり、ルールで必要以上に縛ったりしなければ、子どもたちは自身の持つ飛行機能力を発揮し、羽ばたいてくことができるのではないか、と思ったりもする。