『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』読了

ここのところ、無意識のうちに自分を追い込んでいたらしい。

M2になったら授業の数ががくんと減るので余裕が出てくるかなと思ったが、全くそんなことはなかった。四六時中研究のことを考えている。

 

しっかり体を休めることができていなかったので、この週末はおうちにこもり、ゆっくりすることにした。体調を崩しては元も子もないし。

 

そして、図書館で借りたものの積ん読状態だった本に手を伸ばした。手始めに…

『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』

この週末特に何もする気がない私にはぴったりだ。

 

この本は2018年6月3日に「レンタルなんもしない人」のサービスがスタートしたときから2019年1月31日「スッキリ」出演までの半年間の出来事をつづっている。

 

テレビで「レンタルなんもしない人」の特集を見たときは、「すごくニッチだけど確実に需要ありそう。おもしろいところに目をつけたなぁ」とちょっと感動したのを覚えている。

 

この本を見つけたときは「”なんもしない人”なのに本書いていいの?」と思ったのだが、この疑問の答えは「あとがき」にあった。

 

「レンタルなんもしない人」の依頼の延長のような形で、文章への書き起こしは全て出版社の方が行い、「なんもしてないのに本になった」という感じの工程だったらしい。

それなのに印税はまるっとレンタルなんもしない人さんに振り込まれるそう。

筋金入りだなぁ、とちょっと笑ってしまった。

 

本の中で気になったフレーズをいくつか挙げてみる。

そういえば、プロ奢ラレヤーはハンドボール部だったそうで、実は僕もハンドボール部だった。あと、キングコング西野は僕と同じ高校のハンド部の先輩だった。ハンドボールには、人に特殊な生き方を選ばせる何かがあるのかもしれない。(p.48)

 

ジャニーズ事務所に入るには小五くらいからがいいとのこと。もっと早くからがいいのではと思ったけど、目標が遠すぎるのはよくないっぽい。勉強になる。(pp.99-100)

 

この「レンタルなんもしない人」という活動、「新手のヒモ」「新手の乞食」「単なる無職」など散々な言い表し方をされることが多くてよく気が沈むんですが、以前出たAbemaTVの番組で、ふかわりょうさんが「面白い船が集まる港」と表現してくれて、それを時々思い返すことで気を保ってるとこある。(p.100)

 

依頼の内容は本当にさまざま。本を読んでいくと、その様子をこっそり覗き見ているような感覚でちょっと楽しい。

 

どうやらこの本の続編もあるらしい。

 続編も気になるなぁ…読んでみようかな。

避けてきた道徳に向き合う

M2になり、昨年取りきれなかった単位分の講義を受講しているのだが、その中に道徳についての講義がある。

 

話が少しそれるが、私が高校の教員を志望していた理由のひとつに「道徳を授業で教えたくなかったから」というのがある。

 

自分に道徳なんて教えられないと思っていた。教師の価値観の押し付けになる可能性は大いにあるし、そもそも人としてあるべき姿なんて教えられるのかと甚だ疑問だった。

(まあ、『学び合い』に出会ってからは「必ずしも教師が教えなくてもいい」と、頭の中でコペルニクス的転換が起きたのだが)

 

ただ、今後の人生、ずっと高校教師でいるかどうかはわからない。なんなら、キャリア教育の研究を始めてから中学校の教員もいいなと思い始めたくらいである。

 

腰を据えて学ぶことができるのは大学院にいる今しかない。

かくして、苦手な道徳に向き合うことにしたのである。

 

前置きが長くなったが、今日の道徳の講義でグループごとに模擬授業をした。

教材は「銀のしょく台」。『レ・ミゼラブル』の中のお話だそうで、主人公ジャンバルジャンが刑期を終えて出所し、ミリエル司教のもとに一晩泊めてもらったときに銀の食器を盗んでしまう、というあらすじ。

 

私たちのグループでは、ストーリーの3年後にジャンバルジャンとミリエル司教がばったり出会ったら、という想定での役割演技を最後に入れていた。

 

模擬授業後、先生が「あの役割演技ですごいことが起こっていたのですが、わかりますか?」とグループのメンバーに尋ねてきた。

しかしながら、私は皆目見当がつかずにきょとん。

 

ジャンバルジャン役の人が当初ミリエル司教に対して不信感を持っていたのに、役割演技ではミリエル司教が完全なる善意で銀のしょく台を自分にくれたことを知り、「ミリエル司教の思いを踏みにじってしまうと思って、もらった銀のしょく台は売っていません」と答えたのだ。

 

先生はこの発言を聞いて鳥肌が立ったらしい。

 

種明かしされないと気づかないほど私の見とりはポンコツだったわけだが、このような"授業者の想定をはるかに超える答え"を子どもたちは思いつくんだろうな、とそのときふと思った。

 

そして、その場でそれに気づいて価値づけしていく瞬発力が大切だし、そのために"見とりの目"を磨いていく必要があると感じた。

 

授業はやってみないことにはわからない。

失敗を(そこまで)気にせずチャレンジできる環境にいる今、無理しない範囲でやれることはなんでもやってみよう。

 

こうして、役割演技や『学び合い』の道徳の本を読むことや、去年の先輩の道徳の授業の録画が残っていたらそれを見ることなど、やりたいことがどんどん増えてゆく。

ちょっとだけ拍子抜け

今朝、占いの今日の欄を見たら、

「ぬか喜びになることが起こりそう。片思いの人から連絡があって会う約束をしてもキャンセルになったり、順調だと思っていた仕事に邪魔が入ったりしそうです。

とのこと。

 

今日のスケジュールでその可能性がありそうなのは、西川先生との個人ゼミだった。

 

昨日の私は、1日のインタビュー人数が史上最多の13人を記録。場数をこなして慣れてきたとはいえ、こんなに多くの初対面の方と話すのは正直キツい。終わった後はへとへとだった。

 

インタビューのため学年ゼミに行けなかったので、西川先生には個別に時間を取ってもらえることになっていた。Googleカレンダーを見たら、直近で明日(7/2)が空いている。

 

私の中の悪魔は「疲れてるんだから今日は休んじゃえ!別に明日じゃなくてもいいしー」と囁いたのだが、天使が「何言ってるの!インタビューのスケジュールも埋まってるし、先延ばしにするとろくなことがないのよ!」とお尻を叩いてきたので、急遽アポを取り、個人ゼミを設定してもらった。

 

そこからは、へろへろの頭をなんとか動かし、今まで集めたデータを整理して、先生からの宿題を片付けた。

前回のゼミで「論文で何を言いたいかをシンプルに表現せよ」という宿題が出ていたのだ。

 

そして今日、その宿題を引っ提げ、二、三太刀浴びることは覚悟の上でお茶研へ。

 

「○○を言いたいんですけど…」と言ってみたら、

「こういうことを聞いたらいいんじゃない?」

「これとこれの項目を整理して明日までに送って」とアドバイスしてもらった。

 

わりと身構えていたので、ちょっと拍子抜けだった。

 

自分の中でもつれていたものが、先生のアドバイスで研究の行き先がちょっと見通せた気がする。

 

少し前進。

順調かどうかはわからないけど、とりあえずもがいてみよう。

文月にぞなりぬる

今日から7月。

 

7月は「文月」とも言われる。

由来には諸説あるが、「文を広げて晒す月」という意味の「 文被月(ふみひろげづき・ふみひらきづき)」が短くなって「文月」になったという説が有力らしい。7月7日の七夕に、短冊に願い事や詩歌を書いて笹に飾る風習を指しているのだそう。

 

昨日バイト帰りに高田のアーケードを歩いていたら、近くの保育園・幼稚園に通う子たちの短冊が飾られた竹が並んでいた。

 

立ち止まって短冊を眺めていたら、

「おかあさんが まいにちちょこぱいをたべていいって いってくれますように」

と書かれた短冊を見つけて、思わずふふっと笑みがこぼれた。かわいらしいなぁ。

 

今朝の上越タイムスの一面にもこのことに関する記事が。

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さあ、1年の折り返し、勝負の7月が始まる。

結果を出そう。

「変わったね」と「変わらないね」

先日、と言っても1週間以上前だけど、夜の23時過ぎに大学時代にバイト先(学習塾)で一緒だった人からLINEがきた。

 

時間が時間だったので「酔って間違えて連絡してきたのかな」と思ってスルーしていたのだが、「○○(バイト先の名前)zoom飲み」というグループに招待され、zoomのURLが送られてきた。

 

「ん?」と思って参加してみたら、画面に並ぶ懐かしい顔、顔、顔。先生だけでなく、当時生徒だった子も参加していた。みんな二十歳か、時の経つのは早いものである。

 

どうやら、私が大学4年の時に中3だった子の一人が二十歳になったので、そのお祝いをしていたらしい。

 

約5年の月日が経っているのでもちろんその子は成長しているのだが、雰囲気や様子は私の記憶の中にある”中3のときのその子”とそこまで大きく変わらなかったので、思わず「変わらないねぇ」という言葉が口をついて出た。

 

そうしたら「変わってないってだいぶショックです…」と凹ませてしまった。

その子の二十歳のお祝いだったのに、ごめんね。

 

その子は中3のときから落ち着いていてしっかりしている子だったので、大人っぽさというか落ち着いた感じはやっぱり変わらないね、ということだったのだけれど、言葉が足りなかったな。

 

 

ここのところ、久しぶりに会った人に「変わった」とか「変わってない」とか言われた記憶がほとんどないので何とも言えないのだが、私はどちらでもうれしいかなぁと思う。

 

「変わったね!」だったら、昔の私と今の私の違いに気づいてくれているということ。

 

「変わらないね!」だったら、私の軸というかコアの部分を見抜いていて、その部分に変化がないことを見てくれているということでもある。

 

どちらにしろ、私に興味がなければ出てこない言葉だと思う。

 

言語化して相手に伝えるかどうかは別にして、相手に興味を持ち、その人の変わったところ、変わらないところを見取れる人でありたい。

みん職フォーラムの「N高生によるトークセッション」に参加して

先週の土曜日に、みんなのオンライン職員室(みん職)の「withコロナ時代の教育フォーラム」があった。

私は、16時からの「N高1~4期生の方々によるトークセッション」に参加。

 

今後広域通信制を選択する子どもたちがどんどん増えていくと思うので、「実際のところどうなのか」というのが気になっていた。今回、現役のN高生やN高の卒業生の方の話を聞けると知り、始まる前からワクワクしていた。

 

N高1~4期生の4名の方のお話はとても刺激的でおもしろかった。

「圧倒的な時間効率」「自由な時間が増える」「角川ドワンゴのプロのプログラマーからプログラミングを学べる」「テキスト代だけでネイティブの先生から中国語を習うことができる」「”投資部”がある(!)」などなど、いわゆる”普通の高校”では経験できないような利点が多いなぁと感じた。

 

また、「N高でよかったこと」だけでなく「N高の不満なところ」についてもわかりやすく言語化してくださっていた。

不満なところの1つに「通学コースでは先生の当たりはずれがある」とのこと。これは全日制の高校でもあり得ることだが、それに対してただ不満を持っているだけで終わらず、同じ思いを持つ人たちと一緒にN高に対して「こうしてほしい」と意見を送る行動力がいいなと思った。

 

トークセッションの中で特に印象に残っているのは次の2つである。

1つは「高校で青春したい」という思いがない人はN高に向いていること

体育祭や文化祭等の「青春の象徴」はN高にはない。

そうした「青春の象徴」に憧れがある人はN高には向かないそうだ。

おもしろい視点だなと感じた。

 

結局はどこに価値を置くかの問題なのだろうと思う。

「青春したい!」と思うのか、縛りのほとんどない自由な環境と時間を思う存分使って自分のやりたいことに没頭したいのか。

 

2つ目は、N高にはすごい人もいるが普通の人もいるということ。

トークセッションに参加していたN高生のひとりが「N高の凡人代表」という風に自身のことを言っていたのだが、世界的に活躍するスポーツ選手やNPO法人を運営しているような”すごい人”がいる一方で、いわゆる”普通の人”もN高にはいるのだろう。なにせ、生徒数1万5000人だ。

 

それでも、”すごい人”とつながりやすい環境は素敵だなと思う。普通の全日制の高校に通っているのでは得られないつながりをN高では手に入れることができる。

 

今回のトークセッションを通して、N高や広域通信制についてさらに知りたいと思うようになった。

まずは、『Society5.0に向けた進路指導 個別最適化時代をどう生きるか』を読もうっと。

模試を受ける小学1年生を見て思ったこと

今日の午前中は全国統一小学生テストの監督業務をした。

私は小1と小3の子たちの担当だった。普段バイト先の学習塾では中学生を見ているので、小学校低学年の子は未知の領域。

 

基本的には事前に配られたマニュアルを読み上げるのだが、なんと解答の練習をする時間が設定されている!

おそらく、「学校の業者テストは問題用紙と解答用紙が同じ場合が多く、答えのみ解答用紙に書くということに慣れていないはず」という作成者の心配りなのだろう。

実に丁寧だ。

 

テスト前に注意事項を5つも6つも読み上げながら、ふと「なぜテスト中に静かにしなければならないのか、この子たちは理解しているのかな」と思った。

 

「テスト中は静かにしましょう。騒いだり、問題を声に出して読んだりしないこと。」

こうした指示はよくあるが、「なぜダメなのか」まで説明することは少ないのではないかなと思う。「ダメなものはダメなんです!」というように。

 

あったとしても「他の人の迷惑になるから」くらいしか思いつかないのだが、この”迷惑”というのが厄介である。

 

そもそも「テストは静かに受けるもの」という教員側の想定・刷り込みがあるから、子どもたちの方も”音がある状態”を”迷惑”と捉えるのではないか。

 

監督業務中は「なんでテスト中は静かにしないといけないんだろう?」という問いが頭の中でぐるぐるしていた。

 

そして、「テスト中は静かにしなさい」と同様に「テスト中にまわりをキョロキョロしない」というのも大いに疑問ではある。

 

人間が自分の力だけでできることには限界がある。

「必要なときは他者の力を借りて課題を解決していく」これが『学び合い』の考え方のひとつ。

 

にもかかわらず、現状のテストは自力で解くことを前提としている。カンニングは卑怯な行為として許されていない。

ここに矛盾があるんじゃないかなぁと思う。あまりうまく表現できないけれど。

 

『学び合い』が最先端を走りすぎていて現状が追いついていない感もある。

 

テストの在り方も今後どんどん変わっていくのかなぁ。