避けてきた道徳に向き合う

M2になり、昨年取りきれなかった単位分の講義を受講しているのだが、その中に道徳についての講義がある。

 

話が少しそれるが、私が高校の教員を志望していた理由のひとつに「道徳を授業で教えたくなかったから」というのがある。

 

自分に道徳なんて教えられないと思っていた。教師の価値観の押し付けになる可能性は大いにあるし、そもそも人としてあるべき姿なんて教えられるのかと甚だ疑問だった。

(まあ、『学び合い』に出会ってからは「必ずしも教師が教えなくてもいい」と、頭の中でコペルニクス的転換が起きたのだが)

 

ただ、今後の人生、ずっと高校教師でいるかどうかはわからない。なんなら、キャリア教育の研究を始めてから中学校の教員もいいなと思い始めたくらいである。

 

腰を据えて学ぶことができるのは大学院にいる今しかない。

かくして、苦手な道徳に向き合うことにしたのである。

 

前置きが長くなったが、今日の道徳の講義でグループごとに模擬授業をした。

教材は「銀のしょく台」。『レ・ミゼラブル』の中のお話だそうで、主人公ジャンバルジャンが刑期を終えて出所し、ミリエル司教のもとに一晩泊めてもらったときに銀の食器を盗んでしまう、というあらすじ。

 

私たちのグループでは、ストーリーの3年後にジャンバルジャンとミリエル司教がばったり出会ったら、という想定での役割演技を最後に入れていた。

 

模擬授業後、先生が「あの役割演技ですごいことが起こっていたのですが、わかりますか?」とグループのメンバーに尋ねてきた。

しかしながら、私は皆目見当がつかずにきょとん。

 

ジャンバルジャン役の人が当初ミリエル司教に対して不信感を持っていたのに、役割演技ではミリエル司教が完全なる善意で銀のしょく台を自分にくれたことを知り、「ミリエル司教の思いを踏みにじってしまうと思って、もらった銀のしょく台は売っていません」と答えたのだ。

 

先生はこの発言を聞いて鳥肌が立ったらしい。

 

種明かしされないと気づかないほど私の見とりはポンコツだったわけだが、このような"授業者の想定をはるかに超える答え"を子どもたちは思いつくんだろうな、とそのときふと思った。

 

そして、その場でそれに気づいて価値づけしていく瞬発力が大切だし、そのために"見とりの目"を磨いていく必要があると感じた。

 

授業はやってみないことにはわからない。

失敗を(そこまで)気にせずチャレンジできる環境にいる今、無理しない範囲でやれることはなんでもやってみよう。

 

こうして、役割演技や『学び合い』の道徳の本を読むことや、去年の先輩の道徳の授業の録画が残っていたらそれを見ることなど、やりたいことがどんどん増えてゆく。