未知との遭遇(私と『学び合い』篇)

昨日の記事に、ある方からコメントをいただいた。

「『学び合い』を自ら広めたいという気はさらさらない」という部分について、その理由を問うものだった。

コメントを受け、改めて文章を読み返してみて、「さらさらない」はさすがに言いすぎだったなぁと思い、今は「あまりない」に修正している。

ブログの文章は人が見ることを前提としているからこそ、強い表現を使うかどうかについては慎重であるべきだと思う。

自戒の意味を込めて書いておこう。

 

さてさて。先ほどのコメントの答えは、「『学び合い』に全く興味がない人にはすすめてもしかたがないんだろうな、と感じているから」である。昨日、コメントへの回答を考えながら、自身の『学び合い』との出会いについて記憶をたどった。

 

私が『学び合い』に初めて出会ったのは、一昨年の夏である。地元の教採の勉強をしていたとき、仲間から「こんな研修会あるよ」と教えてもらったのが、西川先生の講演だったのだ。

 

その後、教採に落っこちて自分の身の振り方を考えていたとき、ふと西川先生を思い出し、「そうだ、大学院行こう」と決断した。

 

私はそのとき私立の学校で常勤講師(副担任)3年目で正念場だった。雇用法の関係で副担任でいられるのは4年まで。それまでに正規教員になれなければ、時間給の非常勤講師になるか、他の学校に移るかしなければならない。

 

あと1年に賭けるか

比較的安定した給与・身分を捨ててまで進学するか

 

かなり迷ったが、結局ワクワクする方を選んだ。

 

何より、私の後輩にあたる常勤講師の先生たちが、私より先に担任を持たせてもらっていたことで、そのまま同じ場所で勤め続けようという気持ちが冷めてしまったのだ。

「仕事ができる」とまわりの先生からは認めてもらっていたのだが、結局私はこの学校に必要とされていないんだろうな、と感じた。

ちっぽけなことかもしれないが、私が決断するには十分すぎる。

 

また、そのときあるクラスの指導に悩んでいた。私語が飛び交い、寝る者が続出。古典を必要としない生徒が大半の中で古典を教えなければならず、私の存在意義ってなんだろうと毎日考えていた。つらかった。

 

だから、『学び合い』にすがった。

 

『学び合い』はかなりぶっ飛んだ考え方だと思う。おそらく、こんなに指導に悩んでいなかったら『学び合い』に興味を持つこともなかっただろう。キャズムのイノベーター理論でいくと、私はどちらかと言えばアーリーマジョリティ寄りのレイトマジョリティだから。

 

興味がなければ人は見向きもしないのだ。

 

私が(全く興味がない人にも)『学び合い』を自らおすすめする気はないのは、こうした理由からだ。