小説やエッセイの中で心に響く比喩表現があると、その作品にのめり込んでしまいがちな私。
・視線は、リンゴ形の時計に向けたままだ。タコ糸で、縛りつけてしまったみたいに。
・ふつうのボリュームだったはずなのに、ハセオは、オーケストラのシンバルの音を間近で聞いたような反応を示した。
この『そらのことばが降ってくる 保健室の俳句会』もそんな本の一つです。
200ページ以上の小説でしたが、2時間かからずに読んでしまい、こんな時間(深夜0時過ぎ)に作品の感想を書いているというわけです。
この作品は、中学生のソラ・ハセオ・ユミの3人が保健室に集い、俳句を詠む「ヒマワリ句会」を通して変化、成長していくお話です。
この3人は、それぞれ言葉で傷ついた経験があり、相手に自分が伝えたいことを率直に伝えるのが苦手です。そんな3人が、五七五という制約のある俳句を通して、つながりを深めていきます。
俳句は国語の授業でも扱います。最も短い詩形なので、余白が大きい分、教える側としては何を教えたらよいのか、どこまで生徒の自由なイメージに委ねればいいのか、判断しかねる曖昧さがあります。
国語はあいまいだし、答えが一つに決まらないのが苦手だという人もいますが、ソラ・ハセオ・ユミの3人にとっては、俳句がもつ曖昧さというか、余白が大きい部分が合っていたのではないかと思います。
伝わるかもしれないけど、伝わらないかもしれない。それくらいの感触が、ちょうど心地よいのだ。
このあたりが、ソラが俳句を続けている理由かもしれなかった。あまりあらわなメッセージをこめてしまうのは、ちょっと気恥ずかしい。俳句の場合、自由詩よりも短歌よりも短いから、こめたメッセージが伝わらないこともあるが、伝わりすぎるのが苦手なソラには、”伝わらなさ”が、むしろ救いになっているのだ。(pp.80-81)
生徒たちと向き合っていると、日々「どう伝えようか」ということばかり考えてしまいがちですが、伝わるか伝わらないかのはざまを楽しむのも、たまにはいいのかもしれません。
