元同僚と「評価のための勉強からの脱却」について話してみた

先日、元同僚から連絡が来ました。

「カリキュラムについて相談したいことがあるんだけど、今日の午前中時間ありますか?」

そして、「ぜひ教育の先端をいく○○先生(=私)にアドバイスがもらいたい!!と思いまして」という言葉が並んでいました。

 

「カリキュラムにはそんなに詳しくないので、希望に添えるかは分からないな」と思いつつ、出来る限りのことはしたいと思い、元同僚とzoomで話すことになりました。

 

彼曰く「来年度は試験をやめてレポートを課したい」とのこと。3学期に入ってからは多少時間の余裕があるので、来年度のカリキュラムの構想を練っていたそうです。

 

その構想を一通り聞いてから、私が思ったことを伝えました(思いついた順に話したので、だいぶとりとめのない話になってしまった…)。

 

彼が試験をやめてレポートを課そうとしているのは、「評価のための勉強から脱却してほしい」という思いがあるからなのだそう。「テストがあるから勉強しなければ…」というのではもったいない、なんとか学習に対する生徒のモチベーションを上げたい、とのこと。

そして、教師の評価だけでなく生徒の自己評価を成績に反映させようとしているものの、自己評価の妥当性をどう保障するか等で悩んでいたみたいです。

 

自己評価の妥当性の担保については、「小レポートとそれに関する自己評価の欄を1枚のワークシートにまとめて、成果物をクラス全体で共有したら?」と提案してみました。

 

自己評価をするには、明確な判断基準を示すことと自分を客観的に見る目が必要になってきます。判断基準がなければ行き当たりばったりの評価になってしまうからです。また、「自分を客観的に見る目」を育てるには、他者と関わることが重要なのではないかと思います。他者と関わることで自分ができているところ、足りないところを自覚し、できているところは伸ばし、足りないところは改善していくことができるのではないでしょうか。

 

教師の目よりも生徒たちの目の方が厳しいです。教師の目はすり抜けることができるかもしれないですが、友達やクラスメイトの目はごまかせないからです。テキトーな自己評価をしていることが露見したら信用を失いかねません。

ただ、「(そうは言っても)テキトーにやってもいいよね」という雰囲気がクラスの中にあると「まわりの目」は機能しません。最初に「なぜ自己評価を成績に反映させるのか」というのをきちんと語り、折に触れて伝えていくことが必要なのでしょう。

 

 

「脱線するけど、教育について大切だと思っていることを教えてよ」という彼の問いかけがきっかけで、「生徒たちの一生涯の幸せを保障する教師になりたい」「結局生徒たちに寄り添えるのは、教師ではなく生徒である」「授業を通して他者と関わる力を身につけてほしい」という『学び合い』の根っこにある考え方についてもちょっと話すことができました。

 

終わり際には、彼から「自分じゃ思いつかなかったことをいろいろ聞けて良かった、ありがとう」と言ってもらえました。

 

こうして自分を頼ってもらえるのはとてもうれしいことですね。

 

彼と話していて、評価についてはまだまだ勉強不足だなと感じたので、現場に出る前に本を読んだり人と話したりして考えていきたいと思いました。