「納得してもらったらサインをもらう」というだけの指示では足りないんだな

『学び合い』ではよく「クラスメイト○人に説明し、納得してもらったらサインをもらう」という方法をとることがある。生徒たちが全員理解することを保障するための仕組みでもある。

 

ただ、それだけでは生徒はなかなか動かない。

納得したかどうか確認せずにサインだけしたり…

そもそもサインせずに終わりにしてしまったり…

 

「きちんと確認してくれる人がいてうれしい」などと終わりの語りで伝えてみたこともあるが、次回以降大きく変わるかといったらそんなことはない。もったいないなぁと思いつつも、正直手をこまねいていた。

 

そのため、昨日の授業では語る内容を少し変えてみた。

 

課題は以下の通り。

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ちょうど『政治の基本は民主主義』という作品を読んでいたので、選挙について生徒に問うてみようと思ったのだ。

 

生徒たちには課題について簡単に説明した後、こう付け加えた↓

「今回の課題の評価基準は1つ。「私が納得できるかどうか」です。みんなが選挙についてどう考えているかは関係ありません。①「納得できる」というのは、例えば自分の主張と理由の間に整合性がある、両者が対応しているということです。また、ひとりよがりな理由もだめですね。「めんどくさい」とか。また、②少なくともクラスメイトを納得させられないようなら私を納得させることはできないですよね。だから、クラスメイトに確認のサインをもらっていないものは評価しません

 

以前と違うのは2つ。1つは「納得できる」とはどういうことかを明確にしたこと(①)。もう1つは、なぜ確認してもらってサインをもらうのかという目的をはっきり示したこと(②)。

 

今までは「納得してもらったらサインをもらう」という手段が目的化していたような気がする。目的は「全員が課題に正対し、他者が納得できるような文章を書くこと」、それを互いに確認できるようにサインという手段をとっているだけ。このことが私自身も曖昧になっていたのかもしれない。

 

授業中、「見てみてー」「あ、この内容いいと思う!」というような声が聞こえたので、終わりの語りではそのことに言及し「いいね」と伝えた。

 

授業後課題をざっと眺めてみたら、すべての課題にサインがあった。もちろんサインだけして終わりという生徒も多かったのですが、互いに読んで確認しあっている姿が以前よりも見られたのは成長かなと思う。

 

伝え方次第でこんなに変わるものなんだな。