今日は8月15日。終戦記念日である。
どなたかがSNSに「終戦記念日ではなく、正確には”敗戦”記念日。「戦争が終わった」のではなく「戦争に負けた」のである。言葉の使い方には意識したい」というような投稿をしていた。その視点は私にはなかったので、ここに記しておこう。
今年で戦後75年になった。節目の年だが、平和祈念式典等は例年に比べひっそりとしている。
今年はコロナウイルスの蔓延で修学旅行が中止になった学校が多いためか、全国各地の戦争に関わる記念館への来場者数も激減しているそうだ。戦争を経験した方の高齢化も進み、戦争を次の世代に伝えるのも年々難しくなっている。
私が専門とする国語(現代文)の教科書には、必ず戦争に関わる作品が掲載されている。
私が高校で現代文を教えたのは講師1年目のときだけだったのだが、その際にも戦争教材を扱ったことがある。
このエッセイは、写真家の石内都さんが被爆資料を撮影した作品をもとに著者が考えたことを綴ったものである。
石内さんの作品は『ひろしま』という写真集になっている。
この『少女たちの「ひろしま」』を教えるにあたって、写真集『ひろしま』を購入した。おそらく、教師になって(教材に関係するもので)初めて買った本だった気がする。もちろん教科書にも挿入された写真はあるが、もとになった写真たちを見ておきたいと思ったのだ。
写真集を見て思ったのは「想像以上にカラフルだなぁ」ということ。表紙にある白地にピンクの小花柄のスカート以外にも、トリコロール(赤白青)のチェックのワンピース、水色に白の水玉のワンピース、ピンクの花柄のブラウス…
被爆により燃えたり汚れたり破れたりしているけれど、それでもきれいだなと感じた。
今までのメディアの報道によるものなのかもしれないが、「戦争=モノクロ」のイメージが私にはあった。
でも、その当時の日本には普段の生活を送っている人がいて、おしゃれをしたい女の子たちがいて。そんな当たり前のことも「戦争」というメディアのフィルターを通すと見えなくなってしまう。
国語の戦争教材は、戦争の悲惨さや平和の大切さを描いたものが多いが、『少女たちの「ひろしま」』は戦時下の人々の普段の生活を想起させる内容で、初めて読んだときにハッとしたのを覚えている。
講師1年目は日々の授業を成立させるのに精一杯で、『少女たちの「ひろしま」』の授業も一緒に組んだベテランの先生におんぶにだっこだった。「この教材でこれを学習させよう」などという構想は正直なかった。
多少なりとも経験を積んだ今、戦争教材を現代文の授業で扱うとしたらどうするだろうかと考えてみたが、結論は出ない。
「戦争の悲惨さだけでなく、なぜ戦争に進まざるを得なかったのか、その経緯を学ばせるべきだ」という考えもある。
国語の授業で戦争教材を扱うことは、子どもたちが戦争について考える大切なきっかけのひとつ。現場に出たら、生徒たちとともに考えながら授業を作っていきたい。