変わらざるを得ないのだろうという一種の希望のようなもの

最近、個人研究の関係で企業の方と話す機会が何度かあった。

 

今日の午前中も母のつてで紹介してもらった方とお会いし、40分程度お話をした。

 

その方は地元の商工会とつながりがあるのだが、商工会の集まりでは

コロナウイルスの影響で会社がどうなるかわからない」

「収入が例年の1割程度になってしまった」

というような話題が多いそうだ。

 

お話の中で、

「この先どうなるかはわからない。それでも明日はやってくる。」

という言葉が心に残った。

 

・企業は利益の増減という目に見える形で評価が下される

・社会情勢の影響を受けやすい

・生活(食べていけるかどうか)に直結する

だから、リーマンショックや今回のコロナウイルスの蔓延等が起きると変わらざるを得ない。

 

一方で、教育界(教育村)はどうだろうか。

 

・(全国学力学習状況調査等はあるけれど)目に見える形で評価が下されるか、と言えば必ずしもそうではない

→教育の効果、成功・失敗はすぐにわかるものではない、という話はよく耳にする

・結局のところ前例踏襲で終わることも珍しくない

・(特に正規教員は)よほどのことがない限り解雇されることはない。

 

教育村はそもそも変化しにくい構造なのだろうと思う。

 

それでも、今回のコロナウイルスの感染拡大は日本社会の働き方を再考する契機になった。

おそらく水面下で、さまざまな人が知恵を絞っているのだろう。

嵐の前の静けさ。

遅かれ早かれ、その嵐に教育村も巻き込まれ、変革せざるを得なくなるんじゃないか、というちょっとした希望を持っている。

 

↑なんてことを、西川先生のブログの記事https://www.jun24kawa.com/entry/2020/03/27/195506

の内容とつなげて考えてみたり。