生徒の「先生いくらもらってるの?」から始まった非常勤講師の給与の話

昨日のあるクラスでのこと。授業の前半で試験範囲が終わったため、後半はテスト勉強の時間にした。私は教室全体の様子を眺めつつ、教卓で期末考査後の授業で使うプリントを準備していた。確かプリントを3枚組にして半分に折る、という単純作業だった気がする。

 

女子が3~4人固まっておしゃべりに花を咲かせていたので、いったん作業の手を止めて、「お嬢様方、とてもテスト勉強しているようには見えないんですけどね」と声を掛けた。

 

そのとき、そのおしゃべりしていた子の一人が

「先生、一コマいくらなの?」

と聞いてきた。一コマいくらなのかは忘れていたためとっさに答えられないでいると、

「先生、月にいくらもらってる?」

とさらに聞いてきた。毎月の給与額はだいたい把握していたので、

「10月は祝日も学校行事もなくてみっちり働いたから○万くらいかなぁ」と具体的な数字を挙げて答えた。

 

すると、

「えー、低い! こんなに頑張ってるのに!」

という反応。

 

「授業の時間だけ時給が発生するからね」と私が言うと、

「プリント作る時間は給料出ないんですか?」

「残業代はもらえないんですか?」

と矢継ぎ早に生徒からの質問が飛んできた。「残業代? 出ないよ」と答えたら、

「プリント作るの手伝いますよ!」

と申し出てきたので、「それよりテスト勉強してね」と丁重にお断りした。

 

「頑張っている」と私のことを見てくれていた生徒がいたのはうれしかった。そして、その頑張りのわりには(生徒から見て)私の給与は低いんだなぁと思った。彼らの基準はおそらく自分の1か月のバイト代なのだろうけど(いったい生徒たちはいくら稼いでいるのやら)。

 

プリント作成とか印刷とか、生徒の目に触れないだけで仕事は意外とたくさんある。私は非常勤講師なので、そういった授業時間外の作業は実質無給である。

 

学校ではお金の話はタブーというかあまり話題に出ない気がする。そもそも(日本だけかもしれないが)、給料について話すのははしたないというような雰囲気がある。私自身、大学生くらいまで実家の所得額を親に聞いたことはなかった。

 

でも、自分が生きていくためにいくら必要でいくら稼がなければならないかというのは、社会に出る前に考えておかなければならないことだと思う。そして、高校生であれば良くも悪くも今の生活が基準になると思うので、保護者がいるならその保護者の収入が一つの基準になるのではないか。将来のお金のことまで考えさせるような機会を高校生までの間に作りたいなぁと思うが、どうしたらいいのかはよくわからない。

 

それにしても、教員に残業代は出ないというのは世間一般の常識ではないみたいだな。

テスト前の授業のペースがなんとなくつかめてきた

中学や高校のテスト前の授業のやり方は担当する先生によってさまざまだ。といっても、大きく3つに分類される気がする。

 

①余裕をもって試験範囲を終わらせ、テスト勉強の時間を作る

②テスト前ギリギリまで授業をする

③コマ数が足らず、他教科の時間をもらってテスト範囲をなんとか終わらせる

 

①〜③のどれがいいということはないと思う。不測の事態でテスト範囲が終わらない!、なんてこともあるだろうし。

 

テストまでの予定は事前に立てておくけれど、その通りに進むことなんてまずないし。思いのほか早く終わることもある。

 

私は少し早めにテスト範囲を終えて、テスト前最後の授業はテスト勉強に充てるようにしている。

ギリギリまでやるとその日欠席した生徒がかわいそうなことになりそうだから。

 

あとは、テスト勉強をしてもらいつつ、提出物の確認をしたいという意図もある。特に今は非常勤講師で授業以外に生徒と関わる時間がほとんどないので、授業に関することは授業時間のうちに済ませてしまいたいと思っている。だから、よく「提出物全部出した人からテスト勉強ね」と指示を出す。

 

こういう明文化されていないやり方って、現場に出てやりながら、まわりの先生の様子を見ながら、自分の型のようなものを作っていくのかなぁと思う。

 

定期テストの作り方とか。

 

「提出物は最終日に提出にすると机の上が大変なことになる」とか、実際失敗してみないとわからないものだし(私だけか)。

 

ただ、何かの拍子にこのブログの記事を見た先生の卵が「テスト前の授業のやり方」について意識してくれたらうれしいな、なんてちょっと思いながらこの記事を書いている。

自ら考え、判断する子どもたちを育てたいなら、その機会を作り、子どもたちに委ねなければ

先日、NHKおはよう日本広島県のある公立小学校の取り組みが特集されていた。

ちょっと探してみたら、ローカルな新聞でも記事になっていた。

www.chugoku-np.co.jp

 

その小学校では制服着用のルールを変え、私服も選べるようにしたそうだ。子どもたちの自主性を育むのが目的らしい。昨年度、制服着用を巡って高学年の児童と教員が協議し、保護者会でルール変更を提案しても異論がなかったことから選択制の導入に踏み切ったそうだ。ルールを変える話し合いの場に子どもたちが参加しているのが素敵だなと感じた。

 

特集でインタビューされていた子は「授業で服が汚れそうなら私服にするし、そうじゃないときは制服にできるのがいい」というようなことを話していた。そして、その学校に勤務する先生も「最初からただ「シャーペンはだめ」と言うだけではなく、なぜだめなのかを考えるようになった」と話していた。

 

また、制服だけでなく、宿題の出し方も大幅に変更したそうだ。最低限の課題は教師側で設定するものの、それ以外は例示されたものの中から子どもたちが毎週自ら選び、計画を立てて取り組むのだそう。

 

その学校は以前はかなり細かくルールが決まっていたのだという。その例として「低学年は鉛筆5〜6本と赤・青の鉛筆、高学年は鉛筆5〜6本と赤と青を含む3色のペンを持ってくること。シャーペンは禁止」というルールが紹介されていた。それを目にした私の母が「こんなことまでルールで決めるの⁈」と驚いていたが、程度の差こそあれ、学校という場所には側から見たら「何もそこまで決めなくても」というルールがわんさかあるのかなと思う。

 

今はその小学校では最低限のルールが2つ3つあるくらいで、それ以外は子どもたちが選択できるようになっているとのこと。

 

自ら考え、判断することができる子ども育てるには、その機会を作り、子どもたちに委ねなければならない。大人が思っている以上に子どもたちには判断する力がある。

 

小学校でシャーペンが禁止される理由として「子どもは筆圧が強いので芯が折れてしまうから」「分解して遊んでしまうから」といったものがよく挙げられる。前者に関しては一人一人筆圧は違うし、芯がよく折れるなら使いにくいことこの上ないので自然と使わなくなっていくはず。後者については、そもそも遊んでしまう状況になっていることが問題なのであって、そういう状況であればきっとシャーペンがなくても遊んでしまうだろう。

 

一律に禁止してしまいがちなのは、その方が教員にとって楽だからなのだと思う。拘束やルールで一律に縛ってしまうと、子どもたちはそれが当たり前だと思考停止してしまい、考えることをしなくなってしまうのではないか。

 

もちろん最低限のルールは必要だろうと思うけれど、子どもたちとともに今ある校則やルールについて「これ必要?」と考え直していく必要がありそうだ。

「社会に出てからミスをしたらどうするか」というのを生徒たちに伝えてみた

先日、このブログで「『学び合い』の語りを事前に文章化するか否か」という記事を書いたとき、普段の語りがおざなりになっていたなぁと思った。

 

ただ、「明確に語りという形ではなくても、私は生徒たちに"語って"いたのかもしれない」と今日ふと思った。

 

その明確な語りの形を持たない"語り"は一斉授業で私がしゃべっているときに現れる。完全に不定期、その場の思いつきだ。たいていそのときは「早く進み過ぎているけど、雑談するような雰囲気でもないしなぁ。どうしよう…」と思っている。

 

今日の授業中もそんなことがあった。

 

今、現代文の授業で魚住直子さんの『卒業』という作品を読んでいる。高卒後消防士になって1年目の主人公・寿々が高校時代の友人との関係や仕事に悩みながらも成長していく物語だ。

 

寿々は初めての火災現場で訓練通りの行動ができず、中隊長に注意を受ける。主人公が失敗したシーンである。そこで生徒たちにこう投げかけた。

 

みんなもこれから社会に出るわけだけど、社会に出てミスしたらどうしたらいいと思う?

 

もちろん反応はない。でも、ふっと顔を上げて私の方を見る生徒が数名。そのまま話を続ける。

 

ミスして自分に非があった時はすぐに謝ることが大切。そしてそれ以上に大事なのは、反省して、ミスの原因を明らかにして、行動に移すこと。反省だけしても次の行動に活かさなきゃ意味ないんだよね。人の心の中なんて見えないから。行動に移してこそ、反省の意味があると思う。私は社会に出てもう4年経つけど、やっぱりこれが大事だと思うな。

学校では「ミスしたらどうする?」っていう話をあんまりしない気がする。成功に向けて物事を進めようとするでしょ。もちろん成功に向けて頑張ることも大切なんだけど、失敗したときにどうするかも大切だと思うんだよね。

 

こんなことを伝えたら、おそらく上位2割だろうと思う子たちがうんうんとうなずいていた。少しは伝わったかな。

 

ほとんどの人は言葉では嘘をつけるけど、行動では嘘をつけない。人の心はわからないが、その心遣いは目に見えるのだ。だから、思いは行動に変えていかなければならない。

 

どうやら私は扱う作品の内容にかこつけて、これからの社会のことなど大事な話をするクセがあるようだ。

この時期の進路が決まった高校3年生の授業に苦戦した過去

このところ、高校3年生の授業がつらいというツイートをよく見かけるようになった。

 

いわゆる進学校であればこれからが大学受験に向けての正念場だが、AO入試や推薦、就職試験等が終わり、早々と進路が決まった生徒たちが大半の学校もあるだろう。

 

私自身、高校生の時は同級生のほとんどが現役で大学に進学するような環境にいたので、年内に進路が決まる生徒が大半という状況を具体的にイメージできなかった。

 

その状況を目の当たりにしたのは、ちょうど2年前、講師3年目の時だった。高1のときから授業を担当していた学年が高3になり、古典の授業を担当することになった。

 

講師先ではほとんどの生徒が進学するものの、国公立大学を希望する者はまれで、基本私大や専門学校に進学する生徒が大多数だった。理系はもちろんだが、文系であっても入試で古典を使わない生徒ばかりで、正直「私何してるんだろう」と思いながら授業をしていた。

 

秋口以降、AO入試や推薦入試等で進路が決まった生徒が増えてくる。そこからは授業がつらくてしかたがなかった。

寝る生徒、私語をする生徒、話を聞いているフリをしている生徒…

正直授業が成立しているとは言い難い状況だった。

 

 

今思えば、「なぜ授業で古典を学ぶのか」ということを生徒たちに伝えていなかったせいだったのだろう。生徒たちは誰も尋ねてこなかったけど、きっと心のどこかでは疑問に思っていたんだろうな。まぁ、当時それを面と向かって問われても、生徒が納得してくれるような答えは持ち合わせていなかったけれど。

 

古典そのものを学ぶ以上に重要なことがあると思えるようになったのは『学び合い』に出会ったおかげだ。もちろん古典ができるに越したことはない。『源氏物語』等の教養は国語の教員としては知っておいてほしいなとも思う。でも、みんながみんな知っておく必要はないかなと思うようになった。

 

 

今の非常勤先は職業高校なので、就職にせよ進学にせよ現段階で生徒たちの進路はほとんど決まっている。それでも『学び合い』の際に課題に真剣に取り組み、一斉授業形式でも話を聞いてくれる生徒が多い。

 

もちろん生徒たちが内心どう思っているかはわからない。「授業はちゃんと聞くもの」という刷り込みにも似た固定概念があるのかもしれない。

 

それでも、「これから社会に出て幸せに生きていくためには、人と関わって生きていくことが必要」「他者とうまく関わる力をつけてほしいので、学び方に裁量を与えている」という私の思いがクラスの数人でもいいので伝わっているから、ちゃんと取り組んでくれているんだとしたらうれしいなぁ。

『学び合い』の語りの内容を事前に文章化するか否か

先日ゼミ室で『学び合い』の語りの話になった。

「語りの内容を事前に考え、文章化しておくかどうか」

 

台本レベルでしっかり考えて文章化する人、箇条書きでまとめる人、特に文章化はせず自分の伝えたいことを語る人…

ゼミ生の中でもやり方はひとそれぞれだった。

 

話すのが得意なあるゼミ生は「事前に文章化したり準備したりするのは絶対にしないようにしている」と言っていた。文章化してしまうと、自分が伝えたいことが逃げていってしまうような感じなのだそう。なるほど…

 

かくいう私はと言えば、「基本は準備しない。でもきちんと語らなければならないときは、伝えたい内容を文章化してまとめてから臨む」。

 

普段は、終わりの語りで授業中見取ったことを素直に生徒に伝える一方、はじめの語りは特に準備せず今日の課題を手短に伝えるだけで済ませてしまうことが多い。そのため、「はじめの語り<おわりの語り」になっている。

 

おそらく、「今後の社会について」とか「幸せに生きていくためには」、「一人も見捨てないことは得である」といった内容を毎回の授業で語るのは、ちょっと照れくさいのだろうと思う。語る内容のレパートリーも正直そんなにない。

 

語らなければならないことはわかってはいるのだが、特にはじめの語りはおざなりになりがちなのが目下のところの悩みである。

 

一方、何か困ったことがあったり、生徒集団内で望ましくないことがあったりすると、その次の授業の最初で仕切り直しをする。仕切り直しをする際は、語る内容をしっかり言語化して準備していく。

 

①伝えたいことをひたすらノートに書き出す

  ↓

②言うべきこととそうではないことを整理し、項目を絞る

  ↓

③話す順番を考える

  ↓

④箇条書きにして整理し直す

 

だいたいこの①~④のルートをたどる。こうしないと話しているうちに伝えたいことがあふれてきて、結局何が言いたいのかわからなくなってしまいそうだからだ。

 

仕切り直しの回数が多い(この4か月の間に2回)気がするのは、普段のはじめの語りがおざなりになってしまっているからなんだろうな、きっと。

 

普段の語りをもう少し考え直さなければ。

西川純研究室の全体ゼミのローカル会話は実は宝の山

西川研究室のゼミは学年ゼミと全体ゼミの2つある。

 

学年ゼミはソクラテスの問答法よろしく、ゼミ生が質問し、西川先生がそれに答えるという形で進めていく。先生が「神羅万象天地間なんでも答える」と仰っているように、質問の内容は多岐にわたる。M2ゼミともなると、『学び合い』に関する質問はまれ(あっても連携プロジェクトで『学び合い』を実践している際の悩みくらい)で、今後の社会のことや幸せについて、人生についてなど生き方の話が多くなる。プロポーズの時期を大真面目で質問するゼミ生もいるくらいだ。

 

そんな学年ゼミでの質問は、研究室のYouTubeチャンネルで公開している。登録者1000人を目指しているのでよろしかったらぜひ(現在800人くらい)。

www.youtube.com

 

前置きが長くなったが、今日のお話はもう一つの全他ゼミのお話。

全体ゼミは研究室としてのミッションを達成するために、その進捗状況等について全体で話し合う場だ。週に一度、ゼミ生全員が一堂に会する貴重な機会。

西川研究室のミッションは「日本を変える」こと。そのために本を執筆したりオンラインで話す場を作ったりするなど、さまざまなことを行っている。

 

全体ゼミで全員が静かに誰かの話を聞いている、なんてことはまずない。年に一度か二度、西川先生がいらっしゃって重要な話をするときくらいだ。

それ以外は、議題を進めつつもいろんなところでローカル会話が発生している。わからないことを隣の人に確認したり、議題と関係ある別の話題で盛り上がっていたり、まったく関係のない話をしていたり…

だから、全体ゼミの間はけっこうわちゃわちゃしている。

 

ただ、このわちゃわちゃした会話の中に「いいなぁ」と思うことがけっこうある。自分にはなかった視点に気づいたり、当たり前だけど忘れかけていたことを思い出させてくれたりする。

 

昨日は、同期がM1の子に対して「何か困ってることない?」となにげなくさらっと聞いているのを見て、「あぁ先輩としてこうありたいなぁ」と思った。

去年はM1だったのでM2の先輩にくっついて何かやっていればよかった。しかし自身がM2になった今は全体を見つつ、自分やゼミのタスクを進めつつ、M1の様子を観察し話をしながら適度にフォローするということを同時にする必要が出てきた。

 

自分からうまくいっていない現状をさらけ出すのはけっこう難しい。それが後輩から先輩に言わなければならないとなればなおさら。だとしたら先輩が初期段階で声を掛け、困っていることやうまくいっていないことを聞くことが大切なのかなと思う。そして、そういう話をするには、普段から良好な関係を築いておくことが大切になる。

 

昨日のゼミで耳にした「何か困ってることない?」はワンシーンにすぎないけれど、それまでの関係性が垣間見えて素敵だなぁと思った。

 

また、「個人は変えられないから、問題があるならシステムを変えた方がいい」というフレーズにもハッとした。どうしてもなにか困ったことや問題が起こると原因を人に求めがちである。忙しさにかまけて視野が狭くなると、自分だけが仕事をしているような気になってしまう。しかしながら、こうした「困ったこと」は往々にしてシステムに問題があることが多い。

 

私は発言を求められない限り全体ゼミではほとんどしゃべらないのだが、あちこちで起こるローカル会話に耳を澄ませていると、ローカル会話は宝の山だと感じる。

こればっかりは西川研究室に所属してみないとわからないんだよなぁ。