越後『学び合い』の会、無事終了!

今日は、越後『学び合い』の会だった。私が所属する西川研究室主催の、年に一度の一大イベント。

 

今年はコロナウイルスの影響でオンライン開催だった。ただ、そのおかげで全国から参加者が集まってきてくださった。

 

私は越後の会にはほとんどノータッチで、全体ゼミで「ふーん」と思いながら話を聞いていたのだが、ここにきて突如越後の会関係の仕事をし始めた。

 

実はチェックインや閉会式のスライドは私が作ったものなのである。

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(わりといいデザインなんじゃない?、と自画自賛笑)

 

Googleスライドを駆使したり、Googleフォームでアンケートを作ったり。

 

また、分科会の担当者だったので、前日まで分科会担当の先生と、ああでもないこうでもないと打ち合わせを重ねた。特に昨日は23時くらいまで。

 

そのおかげなのか、アットホームな分科会にすることができたような気がする。

 

リフレクションは、また明日。

小学校で旬や季節を感じた話

先日、友達とご飯を食べに行ったときのこと。

 

メインやデザートが選べるランチプレートで、りんごがふんだんに使われていた。

さつまいもと一緒にグラタンになっていたり、マリネしたものが生ハムに巻かれていたり…

 

そして、デザートもりんごづくしだった。

私は焼きりんご、友達はアップルパイを選択。

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↑私が想像した「焼きりんご」の斜め上をいくビジュアル。盛りつけ方次第で印象は全く変わるんだなぁと思った。

 

さてさて。デザートが届いたときに、友達が「りんごっていつ頃の果物なの?」と聞いてきた。私は秋に食べるものだとばかり思っていたので、「秋だよ。ちょうど今ごろだね」と返した。

 

そうしたら、彼女は「りんごって年中食べられるイメージだから、旬とか食べ頃とかわかんなくなっちゃうんだよね〜」と言っていた。

 

たしかに。スーパーに行けばたいていのフルーツは揃っている。

 

ハウス栽培など農業技術が発展したり、外国から食料を空輸することができるようになったりして、食べ物の旬の感覚は薄れつつある。

 

一方、今学校支援プロジェクトでお世話になっている小学校では、旬や季節感を感じるしかけがなされているなぁと感じることが多い。

 

例えば、玄関に入ってすぐのところに2か所、花がいけてある場所がある。今日行ってみたら、ダリアや千日紅など、こっくりとした秋色の花々が美しくいけられていた。写真で見せられないのが惜しいと思うくらい素敵。

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↑ダリア

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↑千日紅

 

また、先日教室で給食表を眺めていたら、10月末に「ハロウィン献立」が予定されていることにきづいた。かぼちゃの形をしたハンバーグやかぼちゃのスープなどが出るらしい。

 

幼少期の経験のその後の影響を考えると、旬の感覚や季節感が失われがちな今、小学校段階でそういったものに触れる機会を作ることはとても大切なことなのかなと思う。

我が相棒が元気になって帰ってきた!

調子が悪くなって修理に出していたミシンが先日戻ってきた。

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たしか高校生のときから使っているから、もう10年近い付き合いになる。

私の相棒と言ってもいいくらい。

引っ越し先にも必ず連れていって、カバンやポーチなどいろいろなものを作っていた。

 

ここのところは糸の調子がうまくいかずに変な縫い目になったり、布がひきつれてしまったりしていたので「もうさすがに寿命かな…」と思っていたのだが、部品を交換してもらい、見違えるように使いやすくなった。

 

あまりに身近な存在だからか、修理に出した後、

「布の裁断終わったし、ワンピース作るか! あ、ミシン修理中だった」

「今日ティッシュケース売れたから新作作ろう♪ あ、ミシンないんだった」

↑こんなことが頻発した。だいぶ重症である笑

 

それだけ私にとって欠かせない存在なんだろうな、たぶん。

 

今年は服作りに目覚めたので、ミシンの出番はさらに多くなっている。

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もうすでに3着作っている。

 

これから4着目にとりかかろうとしている。作りたいのはまたしてもワンピースなのだが、新潟の冬はワンピースだと凍えてしまうので、とっとと作らなければ。

 

ミシンの有無で私のQOLが全然違うんだな、と実感する今日この頃。

”いい夫婦”と言うと両親が思い浮かぶ私は幸せなのだろう、きっと

妹が大学を卒業して子育てから完全に手が離れた後、両親が連れ立って旅行に行くようになった。決まって稲刈りが終わって冬が来る前の時期。我が家は農業が本業なので、父が米を作り、母がその米を使って餅や団子などの加工品を作っている。互いに持ちつ持たれつの関係である。「今年もお疲れさまでした」ということなのかもしれない。

 

昨年の旅行先は京都だった。京都の紅葉はとても美しかったらしい。

今年も昨日から一泊二日で県内をツアーでまわっていた。私と妹、母のLINEのグループには「左にいるのはお父さんです」などのコメントとともに、旅先での写真が何枚かあがっていた。実に微笑ましい。

 

両親は基本出不精なのだが、最近の母は所属している農業系のサークルや勉強会等であちこち飛び回ったりするなど、わりとフットワークが軽い。一方の父は、びっくりするくらいどこにも出かけない。母が連れ出さない限り、家と田んぼの往復しかしてないんじゃないかと思うくらいだ。

 

お互いを必要としているけれどべったりではなく、でもときどき旅行に行ったりご飯を食べに行ったりする。そんな両親を見ているとすこしうらやましいなぁと思う。

 

 

私は一度県外に出て、また実家に戻ってきたわけだが、戻ってきた当初は父の家事分担が増えていることにとてもびっくりした。私が高校生のときまではごみ捨てと風呂掃除がせいぜいだった気がするが、今はそれらに加え、洗濯物を干すのと部屋の掃除をするのも父の役割になっている。自分の昼ご飯は自分で作ったりもする(基本チャルメラだけど)。

 

私が実家を離れていた数年の間に何があったんだろうと思ったが、そもそもここ2~3年は私も妹も県外に出ていたので家事をする人間がいなくなり、母は猫の手も借りたい状況だったのかも。猫の手よりは父の手の方が使えそうだ。

 

・何かあればきちんと話し合い、必要に応じて変えていく。

・相手の性格はそうそう変わらないということを前提に行動する。

 

こういうことが自然とできている関係は素敵だ。

もちろんときどきけんかすることもあるけれど、少しすればお互いケロッとしている(ように見える)。

 

私も両親のようにフラットな関係で話し合いがしっかりできて、自分の考えを押しつけるのではなく、相手の言うことに耳を傾けられるようになりたいなと思う。

今まで生徒たちに蒔いてきた種が芽を出しているという確かな手ごたえ

今日の授業中とてもうれしいことがあり、帰りの車の中で自然と笑みがこぼれ、にやにやがとまらなかった。

 

お昼ごろ非常勤先に着いたときは、特に今日このブログに書く内容が思いついていなかったので「かくなるうえは、「今日の夕飯にプッタネスカを作りました」とでも書こうかな」と思っていたのだが、そんなつまらないことは一瞬で吹っ飛んでいった。

今家に着いて、夕飯の支度そっちのけでこうしてブログを書いているくらいには興奮している。

 

生徒の言葉の力はすごい。

 

あるクラスで演習をしているときだった。

教室の後ろで机に突っ伏して寝ている生徒を私が起こしにいったとき、近くにいた生徒が、

「全員ができなきゃダメなんだよ。ほら、俺が教えてやるからさ」

とその起きた生徒に声を掛けていたのだ。

 

びっくりして、一瞬頭の中がフリーズしたのだが、すぐにうれしさがじわじわと込み上げてきた。

 

声を掛けた方の生徒は、私がどうしようもなくなって泣きそうになりながら語った日に、振り返りシートに、

俺たち(先に終わる組)が本気出せば、まわりもやるかもしれない

と書いてきてくれた子だった。彼は(きっと)このクラスのトップランナー

 

私が自分の言葉で語ってきたことが、生徒の中に根付いて、自然と口に出るようになっていたのだ。今まで私なりに蒔いてきた種が芽を出しているという手ごたえを感じた。

 

これ以外にも、最近授業中寝てばかりの生徒で、今日の授業中に私が起こして声を掛けたとき「プリントありません」と言っていた生徒が、プリントを探し出して近くの生徒と一緒に課題をやり、終了間際に「先生、プリントありました!」とわざわざ教えてくれた。

 

ただ、全員達成とはならなかった。

 

そのクラスで終わりに語ったことが、

今日はうれしいことが1つと気になることが1つありました。うれしかったのは、課題を終わらせようと頑張って取り組んでくれた人が多かったこと。そして、特に「全員ができなきゃダメなんだよ」という言葉がみんなの中から出てきたのは本当にうれしかった。成長しているなと感じました。

気になったのは、「できない言い訳を探す前にやれることをやる」ということです。プリントなくすこともあるかもしれない。みんなの机の上とかロッカーの様子見てると、全員がきちんと物を管理できているとは思えないから。でも、「プリント忘れたから、なくしたからできません」で止まっているんじゃダメなんだよね。社会に出て、仕事に必要な道具忘れたりなくしたりして「道具ないからできません」って何もしなかったら、「こいつ仕事できねぇな」と思われて仕事回してもらえなくなるよ。下手すればクビだよ。でも、みんなにはそうなってほしくない。だから、そういうときにどうしたらいいか考えて行動してほしい。社会に出たら自分が困っているときに「困っている」とか「助けて」と声を上げなきゃ助けてもらえないんだから。みんなには考える頭があるし、もうみんな17~18年間生きてきてるんだからできるよね?

 

授業後そのクラスの振り返りシートを眺めていたら、起こしてもらっていた生徒が、

友達が起こしてくれたのでうれしかった

と書いていた。

 

また、別の生徒が、

社会に出る前にこういう勉強ができていいと思った

とコメントしてくれていた。

 

彼ら彼女らは高校卒業後すぐに就職する生徒も多い。特に今週は就職試験の面接が目白押しで公欠で教室がすかすかなんてこともある。

 

社会に出て働くことが目前に迫っている生徒たちに対して、私が伝えられることは何か。語りを考えるときは常にこのことを念頭に置いて考えている。

 

私が語った言葉が、授業中の経験が、少しでも生徒たちの心に刺さっているのなら、これに勝る喜びはないと思う。

映画『星の子』を観て感じたこと

週末映画館で映画鑑賞生活がここ1か月ほど続いている。

三日坊主が服着て歩いているような私にしては続いている方だと思う。

 

今までは、映画を観るとなると事前に公式サイト等で情報を仕入れ、あらすじや評判などを確認してから観ていた。ただ、今は週1ペースで観ているせいか、映画館のポスターをざっと眺めて気に入ったものを翌週観る感じになっている。当然あらすじも登場人物もよくわからないまま見始める。

 

昨日は映画「星の子」を観てきた。

hoshi-no-ko.jp

 

新興宗教の熱心な信者である両親に育てられた中学生の女の子を芦田愛菜さんが演じる。久しぶりに見る彼女の演技に引き込まれた。

 

見終わった後、なんとなく言葉にできないもやもや感があったので、twitterで「星の子」の感想を検索して眺めていたら、「宗教を描いた作品にありがちな、主人公が宗教を信じる両親に対して嫌悪感や不信感をぶつけて反抗し、両親はそれに対して反発するというシーンがなかった」というようなコメントがあり、少し腑に落ちた。

 

新興宗教と言うと、何となく得体のしれないもの、過激なものというイメージが私にはあるのだが、映画全体は静謐な不思議な雰囲気で進んでいった。私は知らず知らずのうちに新興宗教と過激さを結びつけていたのかもしれない。

 

最後のシーンの解釈は今でも正直よくわからない。観る人に解釈を委ねる部分が多い映画だなと感じた。

 

 

作中には、岡田将生さん演じる中学校の数学教師(南先生)が登場する。もはや職業病(?)なのかもしれないのだが、教師が出て来る作品を見ると「自分だったらどうか」とついつい考えてしまう。

 

映画だからオーバーに描かれているにしても、南先生はいい先生とは言えなかった。

・顧問をしている部活動の女子生徒に手を出しているといううわさが流れる(火のないところに煙は立たない)

・下校時刻まで残っていた生徒たちを自家用車で送っていってしまう(途中で事故ったらどうするんだろう)

・クラス全員の前で主人公のちひろを叱責+ちひろちひろの両親を宗教に関することで侮辱

ちひろをかばったクラスメイトの話をよく聞かず、叱責+侮辱を続ける

 

好きで憧れていた南先生にクラス全員の前で叱責され、侮辱されたちひろは泣き出してしまう。そんなちひろに寄り添っていたのは、幼馴染のなべちゃんと新村くんだった。特になべちゃんは、ちひろちひろの両親が信仰している宗教のことは変だと思っているが、宗教とちひろ自身のことは分けて考え、ちひろを大切にしていることが伝わってきた。

 

宗教などの外的要因との人格を分けて捉え、自分自身を丸ごと受け入れてくれる存在はかけがえないものなのだと思う。

 

そんなつながりを学校教育を通して生徒一人一人が手に入れられたら、どんなに素敵な社会になるだろうと少し妄想した。

M2とM1では役割もやることも違う

先日のゼミで「○小(私がいるチーム)の連携、進んでる?」という話になった。他のチームの進捗状況を聞いてみると、はるかに先を行っている。

このままではまずい、ということで、急遽チームのメンバー全体で集まって話し合うことにした。おそらくここでいったん軌道修正(必要に応じて)しないと中途半端で終わってしまいそうだ。

 

昨日は個別にLINEやZoomで連絡を取ったり、LINEで日程調整をしたり(LINEの投票機能初めて使った)、連携のために時間を割いていた。

 

M1のうちはただM2について動いていればよかったのだが、自分がM2になるとチームの一員としてやるべきことは増える。去年のM2の先輩方も、見えないところでいろいろ手を尽くしてくれていたんだろなぁ。

 

話し合いは思いのほかあっさり終わった。

やっぱり何かを1人に集中させてしまうのはシステム的に危ういなと感じた。

複数で仕事をや進捗状況を共有するシステムにしていかないと。

 

また、開催が来週にせまった越後『学び合い』の会も、この期に及んでいろいろやり始めた。

 

分科会の1つのサポートをすることは決まっているので、担当の先生との打ち合わせは週1ペースでやってきたのだが、Googleフォームでアンケートを作り、スプレッドシートと紐づけしたり、Zoomにチェックインした際の注意事項をスライドで作ったりした。

 

同期からは「まじでありがとう」と言ってもらえたけれど、なんのことはない。今までやらなさすぎだったので”仕事してる感”が出ているだけ。

 

私は基本わがままで自己中心的。やりたいことやワクワクすることはやるけれど、やりたくないことは極力やらずに済まそうとする。

 

M1のうちはそれでもよかったかもしれないけれど、M2になるとそうも言っていられない。

 

今日図書館で見つけたこの本に、こんなことが書いてあった。

人生で大切なたったひとつのこと

人生で大切なたったひとつのこと

 

わたしたちはみな、自分勝手というややこしい考え、いや病気を持っています。でも、治療法もあります。

善良なひと、自ら働きかけるひとになってください。もっといえば、自分で自分を治療しなくてはならない。危ない患者のようなものだと思って、これからの人生で自分勝手を治すもっとも効果のあるクスリを精力的に探してください。

とうすればもっとやさしい人になれるか、どうすれば心を開いて、もっとも愛情があって、寛容で、何をも恐れない自分を引き出せるのか、答えをみつけ、そういう人になることにくらべたら、ほかのことなど意味がない、とでもいうように、追い求めてください。

 
なぜなら、実際、それ以外のことは意味がないからです。

 

私は自分自身の”自分勝手さ”と一生付き合っていかなければならないけれど、人のために何かするのはこの”自分勝手さ”を抑える薬になるかもしれない。

 

それが私にとっても、私が所属する集団にとっても得なことなのかな。