同僚の先生方とうまくやっていくことの大切さを感じた若輩者の話

今の非常勤先はメインの職員室(担任の先生がいらっしゃる)のほかに、教科ごとに部屋が割り当てられている。国語科の職員室は教材室と呼ばれている。

 

私は非常勤講師なので、他教科の先生方とはそこまで関わる機会がない。よく話をするのは専ら国語科の先生方。

 

国語科には、私を含め非常勤講師が3人いる。

私以外の2人の方はおそらく再任用なので、私とはおじいちゃんと孫くらい年が離れている。

 

今日の授業前、そのうちの1人の先生(A先生とする)が声をかけてきてくださった。A先生は古参で、学校内のことについてよく通じている。これまでも折に触れて私に声を掛けてくださっていた。

 

中間考査の日程出たけど見た?」という話に始まり、

・テストの管理のしかた

・監督の先生にいつ問題を渡せばよいか

・回収は解答用紙のみだったら、袋の表面にその旨書いておくこと

・テストを入れる袋の表に貼る用紙の場所

・試験期間中の勤務簿の書き方…etc.

中間考査の準備から当日に至るまでの流れや気を付けるべきことを教えてくださった。

 

また、事務室に行ってテスト問題を入れる袋を持ってきてくださった。

 

こうして気にかけてもらっているのはとてもうれしい。

 

今回が私にとって非常勤先で初めての中間考査なので、いろいろと心配だった。

テストのやり方は学校ごとに文化がある。そしてそれらは明文化されていない。

こうした文化はそこに長くいる先生に聞くしかない。

 

試験問題の難易度や体裁等、不安だったので「どうしたらいいですかね?」と思いきって尋ねてみたら、いくつかヒントをいただいた。

 

ベテランの先生のすごさ、同僚と上手くやっていくことの大切さを実感した若輩者の私。

 

連休中に試験問題を作って、先生方に見てもらおう。

生徒たちの良いところをきちんと言葉に乗せて伝えていくこと

今日は午後に3コマ授業があった。

ご飯食べた後だし、7限まである日だから、火曜日はちょっと気を張って授業に向かう。

 

「午後だから眠いと思うけど、1コマお付き合いください」なんて言ってから授業を始めることもある。

 

ただ、今日はどのクラスでも思っていた以上に生徒たちの良い行動が見られたのでうれしかった。

 

●以前は教室の真ん中でグループを作り、1人が作った答えを全員が丸写しして終わりにしていた子たちが、話し合いながら各自で答えを作ろうとしていたこと

 

●「時間だよ」と言わないと席に戻ることができなかったクラスが、時計を見て行動し、決められた時間には全員が席に座ることができたこと

 

●ギリギリまで自力でやろうと粘りつつも、時間を見ながらあるところで見切りをつけて、まわりに聞いたり答えを先に見たりして理解しようとしていたこと

 

こうしたいいところを、『学び合い』での演習が終わったあと、生徒たちに語った。

 

心なしか、少しうれしそうな表情をした子たちが多かったような…

 

昨日の授業で、解説の時間に普段の会話レベルの私語が同時多発的に起きて最後に釘を刺したものの、振り返りシートのコメントに「先生が名指しで注意すればいいと思います」と書かれ、うーん…と悩みながら今日を迎えた。

 

もちろん、教師は言うべきときには言わなければならない存在なので、全体に向けて注意をしたり釘を刺したりすることは必要だと思う。

 

でも、その力を持っている子たちはクラスに必ずいるはずだし、環境を整えれば自ら学ぶ力を持つ子は少なからずいるはず。

 

もっと手を離していけたらいいなぁと思いつつ、まだ彼ら彼女らと出会って2ヶ月経たないことを思い出しては「焦りは禁物」と言い聞かせる日々。

 

今日みたいに生徒たちの良いところ、素敵な姿を見ると、「教師という選択は間違ってなかったのかもしれない」と感じる。

 

生徒たちの、集団の成長を間近で見ることができるのがうれしくてしかたない♪

夏目漱石の『こころ』で生徒に何ができるようになってほしいのか考えてみた

2学期になってから授業で扱い始めた、夏目漱石の『こころ』が佳境に入ってきている。

 

大学院に入ってからは、「教材”を”教える」から「教材”で”教える」にシフトしようとしてきていると思う。

最初に学習指導要領を読んで目標を考えたり、「この問題ができるようになることで、生徒たちにどうなってほしいか」を考えるようになったり。

 

『学び合い』は究極「教科なんて(正直)そこまで重要ではない」というスタンスだが、国語の授業をしている以上、「国語を通して何を身につけてもらおうか」という視点は私には欠かせない。

 

今のところ、私が夏目漱石の『こころ』で生徒に身につけてほしいのは次の3つ。

①主人公を通して自身をメタ認知する力

教科書に掲載されている『こころ』の「先生と遺書」部分は、一貫して「私(=先生)」の視点でお話が進んでいく。「私」の心情を追いかけやすい。

『こころ』のキーワードのひとつは「利己心」である。「私」は自分の恋のために、恋敵となったKをあの手この手で攻撃し、最終的にはKを出し抜く形でお嬢さんとの結婚を取り付ける。「自分さえよければそれでよい」という利己心が「私」の行動には透けて見える。

ただ、この利己心は誰しも多かれ少なかれ持っているものである。純粋に利他的な行動だけで生きている人を私はまだ見たことがない。

利己的に行動してばかりだと、いずれまわりからそっぽを向かれる。自分の利己心とどう折り合いをつけて生きていくかは重要なこと。

自分のことは意外と見えていないことが多いが、小説を読んでいて神の視点で登場人物を見ていると「あぁ、なんでこんなことするかなぁ?」「こうすればいいのに」と思うことがある。

でも、それだけでは不十分で、もう一段抽象化して「自分にもそんなことないかな?」という視点が大切なのだと思う。「自分はこの主人公ではないから関係ない」ではなくて、小説を読むことが自信をメタ認知するきっかけになればいいな。

「「私」がKにしたことはひどい!」とか「「私」はずるがしこい」というコメントが生徒の振り返りシートで見られたが、さらにその先に行くにはどうすればいいのか…ただいま絶賛悩み中だ。

 

②感情を言葉で表現する力

小説には心情を表現する言葉が数多く出てくる。

「侮蔑」「ぎょっとする」「得意になる」「煩悶」「懊悩」「勇気を振り起す」「優柔」「きまりが悪い」「ひやひやした」

↑今生徒とともに読んでいる『こころ』にも、ざっと見る限りこんなにさまざまな心情を表す言葉が使われている。

こうした心情を表す言葉を普段そのまま使うかというと、必ずしもそうとは言えない。ただ、自分の手持ち以外にも感情を切り分ける言葉があることは知っておいてほしいと思う。

感情を適切な言葉で表現することは、感情をコントロールすることにつながる。負の感情は特に。

登場人物の心情を本文の言葉や自分の言葉を使ってまとめる経験を通して、 感情を言葉で表現する力をつけてほしいなと思う。

 

③進退窮まったときに最悪の選択をしないこと

「私」・K・お嬢さんの三角関係はKの自殺という形で幕を閉じる。

Kは養家から絶縁され、実の親からも勘当され、頼れるのは同郷の幼馴染である「私」くらいしかいなかった。しかし、「私」にも裏切られ、最終的に自ら死を選ぶ。

「Kが死を選ぶ前に相談できるようなつながりがあったなら」と思ってしまう。

現在、10代~30代の死因の第一位は残念ながら自殺である。

これから社会に出ていく生徒たちには、もしどうしようもないほど追い詰められたときに、最悪の選択をする一歩手前で踏みとどまれるようなつながりを持っていてほしい。そしてできれば、どうしようもないほど追い詰められる前に相談できるような自分の居場所を複数持っていてほしい。

『学び合い』でそうしたつながりを作ることができたとしたら、こんなにうれしいことはない。

 

今後の授業で、生徒たちに上の3つのことを伝えていきたいと思っている。

さて、(データを)どう料理しようか

研究を再開している。

平日は非常勤の授業と連携プロジェクトでおおわらわなので、休日の内1日は研究に当てることにしている。

 

今日は研究の日。

弁当持参で朝から研究室にこもっている。

 

9月前にデータはほぼ採り終わっている。

データをどう料理しようかというのが今の段階。

 

結論というかこの研究を通して言いたいことはすでに決まっているので、それを補強するためにどのようにデータを積み重ねていくか考えている。

 

そして、また先行研究の沼にはまりそうになっている。

結論や調査結果とつながるように先行研究のストーリー(?)を作っているのだが、何をどの順に並べていくかが難しい。

 

M1前期の「教科教育実践における理論と実践の往還」の授業で、論文の先行研究部分の構成について学んでいたからよかったものの、それもなく自力でやろうとしたらかなり無理があったんじゃないかなと思う。

 

おおまかなストーリーは今日できたので、手持ちの先行研究たちでは足りない部分を補強しようと検索をかけたところ、芋づる式にさまざまな資料が出てきた。

自分の先行研究の調べ方の甘さを痛感。

 

 

10月半ばには論文のたたき台を作る。

そのためには、先行研究をまとめ、データをプロトコル分析し、追加調査をし…とやることはたくさん。

 

空き時間にコツコツと進めていくしかなさそうだ。

 

論文のたたき台ができたら、ゼミのみんなに見てもらってブラッシュアップしていかなければ。

 

西川先生にも「誰も目を通していない論文を僕に見せるなんて言わないよね?この偉大なる西川先生は忙しいんだから。あはははは」と言われたし。

 

絶対に良い論文にしたい。結果を残したい。

大変なのはわかりきっているけど、それでもちょっとだけワクワクする自分もいる。

 

体調崩さないようにだけ気をつけようっと。

「出す→回収→チェック→返却」までが宿題

平日は新聞を読むのが後回しになってしまうので、休日はなるべく新聞を読むようにしている。

 

今朝の新潟日報をざーっと眺めていて気になったのがこちらの記事↓

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市内の小学校の先生が、多忙などを理由に休校期間中の宿題をゴミに捨ててしまったという内容だった。

 

「ウイルス対応や児童に出した宿題が多く忙しかった」のだそう。

 

3月にいきなり休校が決まり、子どもたちの学びを止めないためには宿題を出すしかなかった学校がほとんどだったのではないかと思う。

 

でも、宿題は"出して終わり"ではない。

"回収"からの"チェック"からの"返却"がもれなくついてくる。

 

そして、この部分に時間がかかる。

 

 

休校があけて学校が始まり、例年より進度を早めなければならない授業、ウイルス対策、消毒作業等々新たな仕事が一気に増えた。

 

そして、休校中の宿題の対応も。

 

 

冒頭の記事は、児童の宿題を捨ててしまった教師を責めて終わり、という問題ではないように感じる。

 

ギリギリなところでぷつんと糸が切れてしまったか、コップから水があふれてしまったか。

 

そうならないために、当事者は、まわりは、学校は、行政は、社会は何ができたのか、考えなければならない。

連携プロジェクトのある生活

連携プロジェクトが始まって1週間が経った。

週に3回、半日ずつ連携校に入る生活が12月まで続くことになる。

 

昨年は高校に入らせていただいたのだが、今年は訳あって小学校に行っている。

 

校種が違うとこんなにも変わるのかと思う。

 

小学校は基本立ちっぱなしだ。

こういうことは、実際に経験してみないとわからない。

 

今日は1時間目の体育の授業で小学生男子に体育館一周の勝負を挑まれ(もちろん負けた)、その後も4時間目までずっと立ったままだった。

 

4時間目が終わった後は足がパンパンだった。

 

そして、空き時間というものがない。

小学校の先生方は本当にすごいと思う。

 

中学や高校での時間の流れや子どもたちとの接し方に慣れていた私にとって、ずっと子どもたちと一緒にいるというのは新鮮だった。

 

教師の視点で小学校に入ることができるのは、私にとって貴重な体験である。

 

小学校は学校教育の基盤だと思う。

 

私は中高の教員志望だけれど、私が将来関わるであろう子どもたちがその前段階でどのような学校生活を送り、学びを積み重ねているのか知ることの価値は計り知れない。

 

連携校での子どもたちの様子や先生方の姿勢、想いからたくさんのことを学びたいと思っている。

授業中に寝ている生徒を見て思うこと

『学び合い』でやっている演習の時間はそこまででもないのだが、特に解説の授業の際は最初から机に突っ伏している生徒がちらほら目に入ってくる。

 

体調が悪いのか、寝不足なのか、授業がつまらないのか…

 

『学び合い』に出会う前は、正直「(教員になったばかりの若手だし、)授業中は8割9割の生徒が起きて話を聞いていれば良い方」と思っていた。

 

今は、そういう生徒が1人でもいると「なんとかしたいなぁ」というのと「でも私だけが何かしたところで根本的には変わらないしなぁ」という思いの間でフラフラとしている。

 

全員見捨てたくないという思いはある。

でも現実はそれができていない。

 

心の中で「高校生だし、時間の使い方の選択は彼らにある」という逃げ道を作ってしまっているのが、生徒に透けて見えているのかもしれない。望ましくない時間の使い方をしているなら、「それはダメだよ」と言わなければならないのに。

 

解説で一斉授業をしているときは語りが弱くなる。というか、語りをせずに流してしまうことの方が多い。

 

おそらくそこに原因があるんだろうなぁと思う。ただ、何をどう語ればいいかはつかめていない。

 

今日あるクラスで、「全体を見たけど(寝ていたり、手が止まって諦めていたりして)全員達成はできていなかった。今はネームプレートを使っていないから、達成状況が可視化されない分やりにくいところはあるかもしれないけれど、「ネームプレートを使わない」というのはみんなの選択でもある。全員が達成できていないのは私の課題でもあるし、みんなの課題でもある。きっとみんなならどうすればいいかはわかると思う。次回どう動くか期待してます」というような話をした。

 

悪いところが目についている気がするので、意識して良いところに目を向けなければ。

 

↑これらは全て来週までの私の宿題。

 

生徒に聞いてみようかな。

「寝ている子も見捨てたくないんだけど、どうすればいいと思う?」って。

 

 

『学び合い』をしていると「いいなぁ」と思うことと「うーん…」と悩むことが交互に押し寄せてくる。

 

悩んで悩んでやってみて、生徒の様子やまわりの先生方からちょっと元気をもらって、また悩んでもがきながら進むの繰り返し。

 

今日は生徒が作ったマドレーヌをもらったり(おいしかった!)、お昼の時間に同じ教科の先生とおしゃべりしていっぱい笑ったりしたので、元気をもらうことの方が多かった気がする。

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苦しいことも多いけれど、今のところこれが一番マシだから続けられるんだろうな、きっと。