『学び合い』やってみたいけどちょっと不安だったので、先輩に相談してみた話

昨日、来週から非常勤講師としてお世話になる学校に行き、引き継ぎをしてもらった。

 

『学び合い』やりたい。

できることなら最初からやりたい。

 

こんな思いがあったので、同じ国語科の先生方に、

「コロナ対策ってどんな感じですか?」

「話し合い活動入れようと思ってるんですけど、どうですかね?」

と、いくつかジャブを打って様子を見てみた。

 

「んー、机をつけて話し合いしたりするのは無理かなぁ」

「常に窓全開にしてるしねぇ」

「そもそも、40人みっちり入ってるから、動き回るのは大変だよー」

 

うすうす感じてはいたけど、ちょっと厳しいのかなぁ、なんて思っていたら、

「でも、休み時間は"密"だからねぇ」とのこと。

…ですよねぇ。

 

雰囲気的に「絶対ダメ!」という感じではなかったので、とりあえずやってみることに決めた。

 

でも、現場でやる『』がどんな感じなのかはいまいちイメージできなかったので、採用1年目の同じゼミの先輩に相談することにした。

 

昨日いきなり「zoomで相談のってください!」とお願いしたら、「いいよー」と快くOKしてくれた!

 

相談にのってもらいつつ、現場での話(本人曰く愚痴)をいろいろと聞いた。

 

その先輩のブログは毎日読んでいるのだが、慣れない場所で悪戦苦闘してるなぁというのが文章から伝わってくる。今日はそこには出てこない話もたくさん聞くことができた。

 

私は院生になる前に講師経験があるので、1年目がどれだけ大変かというのは身にしみてわかっているつもり。最初のうちは「わからないことがわからない」状態だし、どこまで自分の色を出していいのかも読めない。型がないので一から作らなければならず、先の見通しも持ちにくい。1週間をなんとか乗り切るので精一杯だ。

 

しかも、『学び合い』は後出しができないのでプレッシャーがついて回る。コロナウイルスで現場も右往左往している。私の時とは状況が違うので一概には言えないのだが、今年1年目の先生は本当に大変だなと思う。

 

先輩は「なんか私ばっかりしゃべってるね。ごめんねー」なんて言ってたけど、そういう話の方が私にはうれしい。制限が多い中での『学び合い』の授業をイメージしやすいから。

 

話しながら、「そういえばこんなふうに二人でゆっくり話したことなかったなぁ」とふと思った。

 

もっと話しておけばよかったなぁ。

 

でもこれからは私の方が「話聞いてー」とお願いすることが増えるかも。授業が始まったら、きっと一筋縄ではいかないだろうし。

 

いろんな人の力を借りて、とりあえずやれることをやってみよう。

西川研究室は新しいことを始める環境が整っている

最近同じ研究室の後輩の成長(?)がすさまじい。

 

一人は、教採の一次試験が終わった途端、出身地である兵庫の『学び合い』の会を再開させ、事務を引き継ぎ、来週末オンラインで『学び合い』の会をするのだそう。

www.kokuchpro.com

 

西川先生が先日SNSで「『学び合い』の会に参加する人ではなく、『学び合い』の会を主催する人を増やすことが必要」という旨の発信をしていたが、まさにそれを実践している。すごいなぁ。

 

また、西川研唯一の学部生の子は、今日の全体ゼミで「(院生ではなく)大学生や高校生を対象にした『学び合い』の会をやる!」と宣言し、その後2~3時間くらいで「学生による学生のためのオンライン『学び合い』の会!」を立ち上げてしまった。

第一回目の会を8月頭にやるらしい。

kokucheese.com

 

西川研究室では、2週に1度のペースで”『純』喫茶”というオンラインでつながれる場を作ってきたのだが、なかなか高校生や大学生にはアプローチできていなかった。今回、彼は西川研唯一の学部生であるという立場を有効活用して、つながりを作れていなかった「穴」の部分を埋めようとしている。

 

西川研は、何か新しいことを始めやすい環境が整っていると思う。

 

西川先生は私たちゼミ生にほとんど裁量を与えてくれるし、先生のネームバリューというか宣伝力は何かを始める際は心強い。バックに西川先生がいるというだけで安心感がある。

 

そして、頼れる仲間たちがいる。

先ほどの学部生の子は、まわりの先輩たちにいろいろ聞きながら会のコンセプトを決め、告知用のサイトを作っていた。

 

こんな行動力のある素敵な後輩たちの姿を見ていると、私も負けていられないなぁと思う。

「ホームスクール」という選択肢

先日新聞を読んでいたら「ホームスクール」という言葉に遭遇した。

f:id:bookmarker330:20200716154152j:image

「ホームスクール」とは「学校に通わずに、時には学校に通いながら、家庭で学習するスタイル」を指すのだそう。オルタナティブ教育のひとつらしい。

homeschool.ne.jp

ホームスクールは親の負担が大きかったり、外とのつながりを意識して作らないと社会性を身につけにくくなったりするデメリットはありそうだが、学校というある種特殊な文化に縛られず、子どもたちが自身の興味関心に沿って学びを深めていけるという点では素敵な選択肢のひとつだと思う。

 

実際に日本でのホームスクールの始め方についてまとめたサイトもあったが、日本ではまだホームスクールがあまり浸透していないため、学校や行政とのやりとりが大変だったようだ。

medium.com

学びの場は学校だけではなくなってきている。

このことに早く気づいて行動を始めないと、早晩子どもたちや保護者に見限られてしまう。

 

今のところ、「学校」以外の選択をすることに対して障壁があるのは事実。広域通信制フリースクール、ホームスクールなどが、現状の学校と同じような学びの選択肢のひとつになればいいなぁと思う。

急に週10コマ以上非常勤講師をすることになった話

急遽来週の月曜日から非常勤講師として働くことになった。

 

今日久しぶりにPプラ(大学の就職支援センターのようなところ)に行き、面接練習の予約をしようと思ったら、いつもお願いしている先生の予約枠はいっぱい。人気の先生なので「まぁ、午後からじゃ間に合わないよな」と思い、研究室に向かおうとした。

そこでPプラの向かいにある講師採用の掲示の欄が更新されていることに気づいた。そこに目が吸い寄せられる。見てみると、高校の非常勤の募集が出ていた。期間は7/20~12/28。

 

正直、迷った。

 

今はまだいいけど、自分の研究があるし、9月以降は連携プロジェクトが始まる。連携先は初めて行くところだから勝手がわからない。しかも平日の夜は毎日バイトが入っている。その上非常勤として働いたらオーバーワークは確実…

 

いったん掲示板の前を通り過ぎたのだが、「とりあえず話を聞いてみるだけでも」と思い直し、Pプラの事務室で募集要項のようなものをもらった。

 

そこからはとんとん拍子。あれよあれよという間に話は進み、来週から働くことになった。

高3の現代文4クラス×3の週12コマ。

 

学校側からは高3の4クラスの内3クラス分の9コマの提案をされたのだが、1クラスだけ違う先生がもつとなると、その先生と進度を相談したりやり方を合せたりする手間が発生する。それなら全クラスもってしまった方が自分のやりたいようにやれる。

 

一瞬、スンと我に返ると「アホなことしてるなぁ」とも思う。

授業の種類としては1種類だけだが、週に12コマ。平日は毎日行くことになる。

アホだ、アホすぎる。やってみないとわからないけど、きっとオーバーワーク。

 

でも、不謹慎かもしれないけれど、ワクワクしてしまったのだ。

同じ学年の全クラス任せてもらえるということに。

 

学校側としては「猫の手も借りたい」という状況だったんだろうけど、任せてもらったからにはしっかりとやろう。

 

始まったらきっと迷うことや悩むことがたくさんあると思う。おそらく上手くいかないことが山のように出て来るはず。

 

それでも高3の生徒たちとともにどんな授業ができるのか、楽しみでもある。きっと高校を卒業したら「国語の授業」なんて一生受けないだろう。そんな子たちに国語の授業を通して私が大切だと思っていることを伝えたい。わかる子にはきっと伝わる、はず。

自分の心の中のことを棚卸しして言語化してみる(自己満足)

「あぁ、これ自分のことだなぁ」と思うツイートを見つけて、思わずリツイートしてしまった。

特に「自己満足のギブが多い」というフレーズには「なるほど…」と不思議なくらいストンと腑に落ちた。

 

恋愛の渦中にいると、自分のことが見えなくなる。ほんとうに。

 

終わった後に振り返ってみて初めて、自己中心的だったことに気づく。相手のことを考えているつもりでも、どこか自分中心に考えている自分がいる。

 

「自分だったらどうか」ではなく相手の目線に立つことの大切さを最近誰かが書いていたような気がするけど、相手の目線に立つって難しい。人は自分のフィルターを通してしか物事を捉えることはできないから。

 

人の目に触れる可能性が高いこの場所で、こんな風に自分のことを言語化できているということは、少しずつではあるけど気持ちに折り合いをつけることができているということなのかもしれない。

 

実物に対峙していないからなのかなぁ。もう1ヶ月以上会っていない気がする。無意識のうちに避けているのかもしれないけれど。そもそも必要がない限り大学に行かない生活に慣れちゃったしな。

 

ここ最近の変化といえば…

Official髭男dismの「Pretender」を聞いても平気になった。

少し前まで「♪君の運命の人は僕じゃない」を耳にすると、気持ちとシンクロしてメンタルをやられそうだったので、髭男の曲はなるべく避けていた。

 

音楽は人を勇気づけたり、癒してくれたりするものだけど、時にリズムを帯びた歌詞が弱った心に襲いかかってきたりするので注意が必要。しかも、音は好むと好まざるとにかかわらず聞こえてくるものなので、意識していないとするりと耳に入り込んでくる。

 

結局のところ、自分の中で反芻して、整理して、折り合いをつけていくしかない。それには時間がかかるし、この過程をすっ飛ばしたいところだけど、関係に終止符を打った私にはそうしなければならない責任がある、はず。気持ちはそう簡単に消えてくれないしね。

 

うん、今度はシチューをお鍋でコトコト煮るような、穏やかな関係を築きたいな。唐揚げを揚げるような、いっときだけ熱量の高い関係じゃなくて。

 

そんなふうに思う、今日この頃。

ここ最近の”アート成分”の補充方法

美術館を愛してやまない私にとって、自由に美術館に行けない今はかなりつらい。

 

4月末あたりに2泊3日で東京にある美術館をひたすらはしごする旅を計画していたのだが、緊急事態宣言のため中止。

今は県をまたいだ移動が可能になり、東京の美術館でも展覧会が再開されてはいるが、さすがに東京に行こうという気にはならない。

東京国立博物館で開催予定だった「鳥獣戯画展」が来春に延期になったのが唯一の救いかな。

chojugiga2020.exhibit.jp

 

何にしろ、今の私には”アート成分”が圧倒的に足りていない。

でも、おいそれと外出はできない…

ということで、最近アートを補充するべく始めたのが次の2つ。

 

①DailyArt

DailyArtは、日替わりで世界の名画を楽しむことができるアプリ。

www.bijutsukentei.com

毎日決まった時間に、その日の絵とその絵に関する簡単な解説を届けてくれる優れもの。

しかも無料(ここ重要)。

今までは美術館でたくさんの作品を一度に見る、という鑑賞方法しかとってこなかったが、こんな感じで毎日ちょっとずつアートに触れることができるのもいいなぁと思う。

 

②AI画伯

自分の顔写真を西洋肖像画風にしてくれるサービス、「AI画伯」。

ai-art.tokyo

昨日教えてもらってさっそく使ってみた。

スマホ内の写真を選択するだけで、AIが顔の特徴を抽出し、30秒かからないくらいで西洋風肖像画にしてくれる。

f:id:bookmarker330:20200713145046j:imagef:id:bookmarker330:20200713145927j:image

「新米画伯」モードと「上級画伯」モードがあるのがおもしろい。

 

しかも、画家の選択肢が思っていたよりも多く、バラエティに富んでいる。

出来上がった肖像画を見て、ピカソの青の時代、ルノワールモディリアーニなど、それぞれの画家のタッチや特徴をしっかりおさえているなぁとちょっと感動した。

 

アートとAIといえば、少し前に手塚治虫のマンガをAIが学習し、新作「ぱいどん」を作ったというニュースを耳にし、驚いた。

robotstart.info

AIと人間が「漫画の神様」の新たな作品を生み出すとは…。

そのうち、「亡くなった作家の新作」が新たに作られたりして。

 

おうちでもアートに親しむことができる世の中になったが、それでも美術館で実際の作品に対峙するのは私にとっては至福の時間。

 

気兼ねなく美術館に行けるようになればいいなぁ。

外山滋比古さんの文章から「書かれた文章を読むことと話すこと」について思いをめぐらせてみた

本日格闘した現代文の問題の出典が、外山滋比古さんの『知的な聴き方』だった。

知的な聴き方 (だいわ文庫)

知的な聴き方 (だいわ文庫)

 

人間は、決して、ものごとをあるがままに表現することはできない。思ったことをそのまま表現することもできない。

はじめに、話す言葉に”翻訳”して、話にする。その話に、さらに、文章化の翻訳を加えて、文章が生まれる。

文章は元の思い、考え、ことがらに二重の翻訳を加えたものであることになる。

 

一部抜粋された問題文の中の一節だが、 読んでいてはっとした。

 

人間は多くの場合言葉を通してしか自分の思いを伝えることはできない。

 

自分の中の形にならない、もやっとしたりふわっとしたりしている思いを言葉に当てはめ、相手に話して伝えようとする。

 

さらに書いて伝えるとなれば、書き言葉の方が話し言葉より制約が多いので、元の思いからはさらに離れたものになってしまうかもしれない。

 

私たちが読んでいる本の裏に膨大な数の編集や修正が存在することは、実際に西川研究室の一員として本を執筆してみて初めて知った。本当に大変だった。(この話はまた今度することにしよう)

 

本を読むと、頭の中でその本の作者と対話することになるのだが、本は作者が伝えたい膨大な量の思いをある意図に沿って編集しまとめたものなので、取捨選択の結果捨てられてしまった作者の思いは字面から想像するしかない。

 

本の作者全員とリアルで話ができれば、文章化するにあたって削られてしまった思いを知ることができるのかもしれないが、それは現実的には不可能である。

 

そういう点で、『学び合い』の本のほとんどを執筆してきた西川先生と、少なくとも2週に一度は対面して話すことができる今の環境はかなり贅沢なんだろうなぁ。

 

書かれた文章を読むことに比べ、話すことの方が下手な編集が入っていない分その人の思いに近いのだと思う。だから、その人の思いを理解しようとするには膨大な対話が欠かせない。

 

「西川研究室の魅力は実際に入ってみなければわからない」と皆が口をそろえて言うのも、この「話すことの蓄積」にあるのだろう。やっぱり文章だけでは伝えきれないのよね、西川研の雰囲気は。

 

↑なんてことを、帰りのバスの中でぼーっと考えていた。